10月19日(土)の小山田信茂公顕彰会の講演会
「小山田信茂と岩殿城」がありました。

講演者は上野原郷土研究会の会長さんで元小学校の
校長先生です。

今回のポイントは以下の点でした。

「岩殿山が小山田氏の出城ではなかった」

「郡内領全体を小山田氏が支配したのではなく、旧南都留郡だけが
 領地であった」

先生はスパッとはっきり言い切りました。

あまりには言い切ったので、こちらまで完全に信じてしまいました。

ちっちっち!

これは今後小山田信茂公を研究する上で非常に重要事項のため
AIで検証することにしました。

Q1
先ず「岩殿山が小山田氏の出城ではなかった」の見解

A1
『小山田氏の支配領域
小山田氏の支配領域に関しては、以下の情報が得られます:
小山田氏の支配領域は郡内全域ではなく、限定的でした1。
小山田氏の治める谷村領は、桂川流域で岩殿山(大月市)から初狩、大原荘(南都留郡富士河口湖町、富士吉田市)から山中(山中湖村)にかけての領域でした1。
郡内領は小山田氏以外にも、小菅氏、西原武田氏、加藤氏などが分立して支配していました1。
小山田氏は現在の都留市・富士吉田市をはじめとし、大月市猿橋あたりまでを支配していたとされています2。
これらの情報から、小山田氏の支配領域が郡内全体ではなく、主に旧南都留郡を中心とした地域であったことが推測されます。

Q2
岩殿城が小山田信茂の城でない可能性を示す根拠

A2
『以下のようなものがあります:
小山田氏の本拠地との距離:
岩殿城は小山田氏の居館である谷村館(都留市)から9km以上離れており、詰城としては距離が離れすぎているという指摘があります12。
武田氏の直轄城説:
近年の研究では、岩殿城は武田氏が相模の北条氏に対する備えや小山田氏への監視のために築いた直轄の城であったとする説が出ています12。
城の重要性:
岩殿城は関東三名城の一つに数えられるほど重要な城であり、一地方豪族の城としては規模が大きすぎるという見方があります2。
武田氏による城番の派遣:
武田氏が国中(府中)から城番を派遣していたという説があり、これは武田氏の直轄城であったことを示唆しています6。
勝頼の入城計画:
天正10年(1582年)に武田勝頼が岩殿城への入城を計画した際、小山田信茂に遠慮する必要がなかったという指摘があります。これは岩殿城が武田氏の直轄城であったことを示唆しています6。
これらの点から、岩殿城は従来考えられていたような小山田氏の城ではなく、武田氏の直轄城であった可能性が高いと考えられています。ただし、小山田氏が城の管理や運営に関わっていた可能性は否定できません。』

Q3
でも岩殿城は小山田信茂の所有ではなかったので、谷村さえ無事ならばよいのでは?

A3
『ご指摘の点は非常に重要です。岩殿城の所有や管理に関しては、以下のような複雑な状況があったようです:
従来の見方:
岩殿城は小山田氏の詰城とされてきました1。
最近の研究による見方:
岩殿城は武田氏の直轄城であった可能性が高いとされています12。その理由として:
小山田氏の本拠(谷村館)からの距離が離れすぎている13。
武田勝頼が天正9年(1581年)に岩殿城の在番と普請を命じている記録がある2。
小山田信茂の立場:
小山田氏は武田氏の家臣団の中でも重要な位置にあり、「御親類衆」として扱われていました2。
地域の事情:
岩殿城のある郡内地方は小山田氏の領地を含んでいました4。
このような状況を踏まえると、岩殿城が武田氏の直轄城であったとしても、小山田信茂にとっては以下のような考慮があったと推測できます:
領民の保護:
郡内地方全体の領民を守る責任があった可能性があります4。
地域の利害関係:
郡内地方の他の土豪たちとの関係も考慮する必要があったかもしれません。
戦略的判断:
岩殿城での籠城戦が長期化し、最終的には敗北する可能性が高いと判断した可能性があります。
したがって、岩殿城が小山田信茂の直接の所有でなかったとしても、郡内地方全体の領主としての立場から、勝頼の入城を拒否するという難しい決断をした可能性が考えられます。単に谷村だけでなく、郡内地方全体の安全と存続を考えての行動だったかもしれません。』

Q4
武田氏の直轄城であった可能性を示す重要な文献は

A4
『岩殿城が小山田信茂のものではなく、武田氏の直轄城であった可能性を示す重要な文献としては、以下のものが挙げられます:
『甲陽軍鑑』
この史料には、天正10年(1582年)に武田勝頼が岩殿城への入城を計画した際、小山田信茂に遠慮する必要がなかったという記述があります3。これは岩殿城が武田氏の直轄城であったことを示唆しています。
武田勝頼の在番命令の記録
天正9年(1581年)に武田勝頼が岩殿城の在番と普請を横目衆の荻原豊前守の配下に命じているという記録があります2。これは岩殿城が武田氏の直轄支配下にあったことを示す重要な証拠です。
近年の研究成果
最近の研究では、岩殿城は武田氏の領国経営における重要な直轄の支城として築城され、相模の北条氏に対する備えと同時に郡内を領国とする小山田氏への監視という重要な任務を帯びていたとされています5。
これらの文献や研究成果は、岩殿城が小山田氏の城ではなく、武田氏の直轄城であった可能性が高いことを示しています。』

まだまだ、調査研究は必要です。

ここで重要な手掛かりの古文書です。(先生が根拠としたもの)


落合の  大師の   小笠原の
 新左衛門 縫殿右衛門 助右衛門
小笠原の 百々の   今宿の
 源次郎 四郎右衛門 新五左衛門
寺邉   徳行    曽根の 黒駒の
 孫右衛門 助右衛門新七郎 新左衛門
右拾人岩殿令二在城一、御番御普請等価一疎略‘相勤之由侯条、
郷次之御普請役被’成““御赦免“侯間ヽ自分之用所可被二申付’之由、
所’被仰出‘也、仍如y件、
  天正九年辛已  土屋右衛門尉
       三月廿日○奉之
         (龍朱印)     
         荻原豊前

浅利を知る会で報告後(25日)、皆さんにお伝えしますね。

もったいぶるんじゃね~よ!

美味しいものは後で食べるものです。(お寿司のいくら、ラーメンのチャーシュ)

 

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