3月10日(金)~12日(日)に四国高知県仁淀川町の「武田勝頼土佐の会」
による後援会参加と史跡巡りのため車による弾丸ツアーを実施しました。
今回のブログは2日目。
史跡巡りと「武田勝頼土佐の会」による講演会ついての報告です。
3月11日(土)
まず最初に「武田勝頼土佐の会」が作成した武田勝頼物語のガイドブックから
勝頼が仁淀川町に落ち延びてきた様子とその根拠について紹介します。
『「3+1」の系図について
1番、大崎八幡宮代々の神官、岡林家に伝わる武田家系図
2番、佐川町の武田家の末裔山崎氏、の分家に伝わる武田家系図
3番、 同上 、嫡流に伝わる武田家系図
十1、大崎八幡宮歴代神主、の岡林家に伝わる神主系図
武田信玄の四男である甲斐武田家頭首「武田四郎勝頼亅(伊那四郎・諏訪四
郎神勝頼ともいう)は、定説では天正10年(西暦1582年)3月11日山梨天目山で
自害、武田家は滅亡したと言われています。
しかし、仁淀川町では、当時の土佐の武将・長宗我部家を頼って土佐に落延
び山田大法寺に入る、続いて池川村安居に入り、その後大崎村下大崎(寺村)、
川井土居(現仁淀川町大崎)に出現、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんぱ)尉」と
変名し、この地で26年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で
逝去され、土居屋敷(鴫王神社)に葬ると、また柿の木の元に葬ると記録
(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。
また、この仁淀川町周辺には一族の墓所を含めて多くの史跡や物証等が残さ
れており、その他今に伝えられてきた「玄蕃おどり」や「玄蕃太鼓」などの地域
芸能も残されています。』
『最後に
推測でしかない事ですが、武田勝頼が此の地に落ち延び大崎玄蕃と名を変えて
住み着いた話は、信憑性は高いと信じてやまないですが研究が待たれます。
この物語、作り話ではありません、昔の事は誰にも確証は出来ませんが、
ロマンが有っても良いのでは無いでしょうか。』
「武田勝頼土佐の会」は武田勝頼がこの地に落ち延び大崎玄蕃と名のって
活躍し、家族も存在していたことを熱く語っています。
午前中、勝頼公のお墓、大崎八幡宮、その他、関連する史跡を廻りました。
そして、午後は、真田忍者の講演と演武、「武田勝頼土佐の会」会長の講演、
そしてパネルデイスカッションが行われました。
先ず、忍者の真田忍者研究会会長伊与久松凬氏の講演と演武は素晴らしい
ものがありました。
忍者の末裔ということもあって独特の雰囲気を持った方で魅力的です。
「武田勝頼土佐の会」岡林会長は大崎八幡宮の前宮司24世であり、
役場の教育長を歴任し、系図によると勝頼公の末裔に当たります。
講演は熱く濃いものであり、大崎玄蕃は実在したと言い切っています。
そして圧巻だったのがパネルデイスカッション。
愛媛大学教授、2人の歴史小説家、真田忍者、小山田信茂公顕彰会会長、
武田勝頼土佐の会会長という顔ぶれです。
特に印象的だったのは、明智光秀は本能寺の変の前に何回も四国を訪れていて、
最終的に本能寺の変は武田勝頼を四国に移動するためのものであったという説
のお話がありました。
また、坂本龍馬は明智光秀の末裔だったという説もあります。
これにはびっくり!
今後、是非、関連資料を読みたいと思います。
ほんと、歴史はロマンですね。
そして講演会の後、懇親会が行われ、土佐の鰹と日本酒をたくさんいただきました。
ここではいろいろな方との交流ができ、今後更にお付き合いを深めたいと思います。
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1日目、2日目共に楽しく読ませていただきました。
歴史繋がりでこの様な交流がされている事がとても素晴らしく羨ましいです。
今後も小山田信茂公顕彰会のみなさまと侃侃諤諤、和気藹々とご清栄をお祈りしております。