折乃笠の元上司・宮田様よりもんじゃの情報をいただきました。

写真付きで昭和のロマンを感じます。

『・・・もんじゃ焼き懐かしいですね。
もんじゃ焼きの出てくる昔書いたエッセイを添付しました。
ここに出てくるサッちゃん(5歳年下)とヨウコ(10歳年下)は私の妹です。

昭和の小さな物語

五円小僧と赤いオアシ(付記-1)
昭和23/28年(1948/53年)
小さい頃のサッちゃんは、みんなから「五円小僧」と呼ばれていた。女の子に「小僧」はそぐわないが、膝小僧の類(たぐい)で一種の愛称と思ってもらえればいいだろう。
いわれは、時々貰う小遣いが五円で、貰うとクワシコ(区役所)のそばにあった駄菓子屋へ出かけて行ったからだ。

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幼いサッちゃんは、誰の手も借りずに一人で買い物が出来るのが嬉しかったのだ。はじめのころは、
「ちょうだいな」と声をかけて店へ入っていたが、妹が生まれてからは、それでは赤ちゃんぽいと思って
「くださいな」に変えた。

飴玉や煎餅をあれこれ物色して品定めをすると、店の人にそれまでしっかり握りしめていた五円を渡したが、学校に上がる前から計算が得意だったサッちゃんは、間違っても五円で足を出すような買い物はしなかった。

サッちゃんとは5歳違いの末の妹のヨウコの時代には、小遣いは十円になっていた。ある時、久しぶりに訪れた奥戸に住む母方の伯母が、小遣いに、と言って五十円硬貨を渡してくれたことがあった。
その時、ヨウコは穴のあいた白く光る硬貨をしげしげとながめて
「ワタシ、赤いオアシの方がいいわ」と言った。

それを聞いた伯母は
「まあ、この子ったら、なんて欲が無いだろう」と言って笑いだした。
幼いヨウコにとっては、いつも貰う十円が自分の使うことの出来る唯一無二のお金で、それ以外の硬貨には興味が無かったのだ。
「これは、お母さんに預けておくから、後からわけて貰いなさい、十円にすれば五回も貰えるんだから・・・」

サッちゃんと違って、ヨウコは、いつも赤い十円玉を持つと水(すい)道路(どうみち)の向こうにあったお好み焼き屋へ出かけた。仲良しの友達がいて二人で行くのだが、子供相手のこの店では、十円出せばお好み焼きかもんじゃ焼が食べられた。
自分で焼いて食べられるのが受けて、店には小さいお客さんがたくさん集まって来た。

五円の小遣いが十円に・・・時の内閣の手で所得倍増計画が策定されたのは昭和35年(1960年)のことだが、それよりずっと早い時期に、物価の方は一人歩きして5年で倍増していたことになる。

メモ
お好み焼き
水で溶いた小麦粉の生地に予め具を混ぜておいて鉄板の上で焼いたものですが、混ぜずに広げた生地に具をそのまま重ねて焼くこともあります。

もんじゃ焼
具と生地を鉄板の上で混ぜながら焼いたものです。

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自分子供の頃は「お好み焼き」とか「もんじゃ焼」となどとは言わず、水で溶いた小麦粉の生地に具を混ぜ、フライパンなどの上で焼く物は、すべて「ドンドン焼き」と呼んでいました。

付記 オアシ
昔の人はお金のことを「お足、おあし」と言いました。まるで足があるように財布から出たり入ったりするからです。
貧乏所帯を切りまわしていた母は、いつも、「お金には足があってどんどん外へ出て行ってしまう」と嘆いていました。』