4月1日に、大月歴史研究の市民団体「小山田信茂公顕彰会」に
入会しました。

元々、小生、小山田信茂公について独自に研究を進めていたので、
自身の更なるレベルアップのためと信茂公の「無念を晴らす」ために
一石二鳥となりました。

顕彰会での初仕事がブログの作成、二番目がそのブログ完成の報告会で
昨日郷土料理屋の濱野屋でプロジェクターを使って実施しました。

会長、副会長などの幹部5人の方に報告、なかなか好評でした。
最終判断は今回欠席された小山田家末裔の小山田隆信様
(小山田家36代、信茂より19代後)に委ねられました。

OKが出たところでブログを皆様に紹介致します。

報告会の後は懇親会。
最初から大盛り上り。
さすが歴史研究会、お坊様で自動車教習所の教官だった方が
やおらにカバンから尺八を取り出し、全員で武田節の大合唱・・・

その後、日本酒熱燗の嵐・・・
初めてお会いした方々との懇親会で、記憶を無くしたのは初めてです(笑)。
先が楽しみです。

さて、今回、小山田信茂公顕彰会について皆様に紹介致します。

『小山田信茂公顕彰会設立の趣旨

 本会の目的は、戦国時代に郡内領主であった小山田信茂公と
 小山田氏一族の事績を顕彰し、広くその功績を後世に伝えてゆくことにあり、
 ひいては「まちおこし」「まちづくり」に貢献することにあります。

 小山田氏は、厳しい自然環境と田畑の少ない郡内の地を、
 優れた手腕によって良く統治しました。
 最後の領主となった信茂公は、武田軍団の先鋒大将として活躍し、
 文武両道を備えた武将として、信玄公からも信頼を得ていました。

 しかるに、江戸時代に出された「甲陽軍艦」で、信茂公は武田家を
 滅亡に追い込んだ裏切り者とされたために、小山田逆臣説が通説と
 なってしまいました。

 それが誤りであったと、半世紀以上前から指摘され、近年多くの
 研究者の検証により通説は覆されました。

 特に、小山田氏の本拠地があった都留市を中心に、早くから活発な
 研究や取り組みがなされ、小山田氏の事績が顕彰されました。
 また、小山田信茂公についての多くの著作も出版され、
 小山田氏は全国区として広く理解されるようになりました。

 ここ大月市においても、市民有志や大月市郷土研究会、
 さらに県内外の研究者のご協力もいただき、小山田氏への関心が
 急速に高まって参りました。

 小山田氏が、岩殿城に拠って甲斐国に隣接する強大な
 戦国大名達から守ってきたこと。

 そして天正10年織田・徳川連合軍が甲斐国を焼き尽く勢いで
 攻め入ってきた時(甲州征伐)、信茂公が自らの命と引き換えに、
 一人の犠牲者も出さず、すべての神社仏閣にも触れさせず、
 郡内を救ったこと。

 これらのことが理解されるようになりました。

 なお、最近、新史料の発見により、小山田信茂公の冤罪を
 晴らした論考も発表されています。

 先人たちの努力を無にしないように、先駆的研究に学びつつ、
 小山田氏についての新たな研究にも取り組みたいと思います。

 今、私達ができうることは、歴史に真摯に向き合い、郷土の英雄、
 小山田信茂公の事績を検証し、次世代が誇りをもって郷土を語る
 ことが出来るようにすることであります。

 同時にそれが、私たち世代の役割であり、責務でもあると考えます。 

 具体的には、勉強会や講演会、史跡探訪、会報発行などを通して、
 会員間交流や広報活動を進めて、小山田氏の歴史に親しみ、
 関心を高めることから取り組みたいと思います。

 この趣旨にご賛同いただき、ご指導ご支援を賜りたくよろしく
 お願い申し上げます。

 平成30年1月吉日     発起人一同』

小生は、このような歴史の大ロマン探求に参加できてたいへん光栄であり、
とてもうれしく思っています。

               岩殿城より大月市街を望む

   

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