1.はじめに

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はとても面白いと思っています。
ドラマ構成が巧みで、会話が現代風で、登場人物が個性的で、
とても面白いです。

その中で、特に源義経が際立っていると思います。

源頼朝と弟の義経との関係・・・・・
歴史上、とても有名な話ですね。

実は小生、今は昔、現地現物で調べたことがあるのです。
鎌倉、そして平泉で。

今回のブログでは、その経験を含めて「義経」を語ります。

  

2.なぜ義経は頼朝の怒りを買ってしまったのか?

これが歴史上とても重要なポイントになります。

父の源義朝は義経が2歳の時、平清盛に敗れてしまいます。
その後、兄の頼朝が打倒平氏を掲げて戦っていた時、義経も駆けつけ
兄弟で父の敵を討とうと決心します。
義経は兄から褒められたい一心で戦い、その結果、大勝利をおさめます。

ここで、義経の性格上で失敗が3つあります

 1.頼朝は自分の兄だからという理由で、頼朝の家来を自分の家来でも
   あると思いこんでしまった。

 2.義経の戦い方が奇襲攻撃ばかりだった。
   武士の世界では、戦いに入る前に名乗るというのが常識だった。

 3.後白河法皇から勝手に冠位をもらってしまった。

頼朝は、1と2で溜まりにたまった怒りが3で爆発します。
「まるで後白河法皇の家来ではないか!」と大激怒。

義経は頼朝に許しを請うため手紙を書きますが、頼朝の怒りはおさまらず、
過去にお世話になった平泉の奥州藤原氏のもとへ逃げていきます。

  

3.鎌倉 鶴岡八幡宮にて

ここでは頼朝の妻、北条政子が語ります。

鶴岡八幡宮には舞殿という木造の素敵な建物があります。

舞殿は頼朝公に静御前が義経様を慕う舞を披露した若宮社殿の
回廊跡に建っています。

あ~あ 今でも覚えています。あの日の事を。

静御前は舞を披露した際に、頼朝公の目の前で義経様を慕う歌を
詠ってしまいました。

もともと、頼朝公は義経様を良く思っていなかったのです。

頼朝公は激高しますが、あたしはこう言いました。
「あたしも流刑人だったあなた(頼朝公)との結婚を周囲に反対され、
家出同然であなたの元に走りました。
戦いの間、あなたと連絡がとれず不安な日々をすごしたこともあります。
ですから、今の静御前の気持ちはよくわかります。
私であっても、同じような歌を謡うでしょう」
と諌めました。

時すでに、頼朝公は何をやっても義経様を嫌っているのでした。

そして、義経様には平泉で悲劇が待っています。

  

4.平泉にて

ここ平泉で、義経は妻子とともに自害してしまいます。

平氏を倒すという目的は同じでしたが、戦い方や考え方の性格の違いに
よって兄から敵扱いされてしまったというのは、なんとも悲しい話です。

ここでは自称歴史評論家補・折乃笠公徳が平泉から語ります。

9時30分
金鶏山入口着。さっそく登山を開始する。

『金鶏山は、標高 98.6m の山である。2005 年に史跡に指定された。
 金鶏山は奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されて
 おり、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が
 存在している。』

金鶏山入口には見事な桜の木がある。
実はその下には、源義経公妻子之墓がある。
物悲しい雰囲気である。

ここから源義経の話をしなければならない。
『3代秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。
 しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた4代泰衡は父の遺命に
 背いて義経を襲った。
 文治五年(1189年)一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。
 時に義経31歳。』

その後、頼朝は4代泰衡を惨殺し、藤原家は滅亡となる。
歴史的に非常に重要な部分である。
自称歴史評論家補の小生、この後、平泉文化遺産センター、
高館義経堂を訪ね更に調査を実施する。

10時43分
高館義経堂着
ここで紹介
『高館は北上川に面した丘陵で、この一帯は奥州藤原氏初代
 清衡の時代から、要害地とされていました。
 兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、
 藤原氏三代秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。
 地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに
 由来します。
 しかし、文治5年(1189)頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子・泰衡の
 急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。丘
 の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経
 を偲んで建てた義経堂があり、中には義経の木造が安置されてい
 ます。高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北
 上川、束稲山が見えます。』

ここで、義経に関する最後の考察。
もしも3代秀衡がもう少し長生きしたら、或いは4代泰衡に器量があったならば。
奥州17万騎に平氏を滅ぼした戦術家義経。
義経は平泉入りの際、既に対頼朝の青写真を携えていたと言われる。
そして信夫郷の館などの軍事施設も整え始め、戦時体制を作ろうとしていた。
この軍事的天才の義経を先頭に、武闘派国衡が騎馬を率い、巧妙な戦いを
仕掛ければ・・・

この地・平泉が日本の都(みやこ)になっていた可能性が充分に考えられる。

  

5.まとめ

もし、源義経が長生きしていたら・・・・・

鎌倉時代は大きく変わり、その後の戦国時代、徳川時代、明治維新は
無かったかもしれません。

よって、世界も大きく違っていたかもしれませんね。

この義経という人物だけで日本の歴史、世界の歴史が変わってしまう。

歴史は、いろいろな人の生きざまを教えてくれる。

歴史を学ぶことは、人生を考えること。

歴史はロマンだ。

    

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