自分が住んでいる地域の歴史、文化、地理、人、慣習、言い伝えなどを
知るということは、自分がその地域で生きることや生活する上で、とても
重要かつ必要なことだと思っています。
現在、小生は、いろいろな方法で実施していますが、今年から
歴史研究会「浅利を知る会」に所属して、地元地域を現地現物で
知る事にしました。
今般、その活動として「史跡畑倉用水を調査lに参加しました。
それは、畑倉用水についての現地勉強会(小俣英雄氏講師)及び水路の
活用状況見学です。
行 程
9時00分 浅利与一地蔵前集合(朝礼・注意事項を確認)~徒歩
10時00分 上畑倉公民館分館にて畑倉用水の説明(小俣英雄講師)
11時00分 畑倉用水取出し周り散策
12時00分 畑倉用水を出て食事 (13:00頃 吉田屋うどん店)
14時00分 浅利与一地蔵に戻り解散
朝だというのに夏の様な日差しで、小生思いっきり太陽を浴びながら
歩きました。
道中、和気あいあい、冗談を言いながら楽しいピクニック気分です。
地元の人たちとの交流も地元を知る上でとても大切なことであり、
楽しいですね。
隣の畑倉地域の公民館に着く頃は汗だく状態で、いただいた
冷たいお茶は最高でした。
ここで、40分位ご説明をいただき、山の中の畑倉用水取出し周り見学へ。
ご説明及び見学により、この大事業を行った昔の畑倉地区の皆様と
それを導いた当時の村長「小俣宇喜知翁」に大きく感動しました。
地元にも、こんな立派な感動的なことがあったことにとても
感銘を受けると同時に、何か奮い立つものがありました。
それでは、その内容について説明致します。
『畑倉はよく肥えた広い土地が広がっていましたが、高台にあったために
田を開くのにはもちろん、生活するための水さえも充分にありませんでした。
このため、畑で作った作物や絹織物などを売ったお金でお米を買ったり、
沢から水を天秤棒でかついで運んできたりと、貧しく不便な暮らしを
していました。
そこで、田を開いてお米を作り、豊かで便利な暮らしを求める住民たちは、
賑岡村の村長を務めたこともある宇喜知を水路工事計画のリーダーに
推したのです。
1942(昭和17)年、奈良子川の春日神社近くから取水し、林地区を通して
トンネルを掘って東奥山の勘蔵まで水を引く計画が立てられましたが、
戦争が激しくなったために中止となりました。
戦争が終わり平和な世の中になると、再び用水路の建設に取り組みました。
今度は、取水口をさらに上流の小俣川に求め、13のトンネルを掘り、
総延長が12kmにもわたるという計画が立てられました。
1947(昭和22)年12月に工事が始まりました。
難工事だったため、工事を引き受けた建設会社も途中であきらめて仕事を
投げ出してしまい、次から次へと変わりました。
とうとう引き受けてくれる会社がなくなり、住民たちは自ら手に道具を取り
自分たちだけで造ることにしました。
工事は、最後の天神トンネルをのぞいて、すべて手掘り作業だったので、
なかなか工事は進みませんでした。
1954(昭和29)年5月、長さ3里(約12km)の用水路がようやく完成し、
16町4反(約164000㎡)の水田が造られることとなりました。』
この水は現在でも畑倉地域を流れ続けています。
先人達の熱情とたゆまざる努力によって、幾多の困難と辛苦の波を乗り越え、
畑倉の地に清冽なそして豊富な水をもたらすことが出来たのでした。
遠隔の山地に水源を求めるという破天荒な着想と、大事業への着工決断は、
畑倉の歴史において特筆されるべき一大快挙といえます。
畑倉公民館前には、等身大の「小俣宇喜知翁」が建ってします。
帰る時、思わず手を合わさずにはいられませんでした。
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