今、面白い本を読んでいます。
”クオリアと人工意識 茂木健一郎著”
まだ、1/3位しか読み進んでいませんが、非常に興味深い記述がありました。
『大学院生になって、学会に行くようになってしばらくして、私は、大いに
不満に感じるようになった。学会で出会う学者たちが、あまり個性が
豊かでなく、[凡庸]に思えたのである。
一方、時折会う芸術関係の人たちは、一人ひとりが個性にあふれていて、
素晴らしく感じられた。
科学関係者の「凡庸さ」と、芸術関係者の個性の輝き。そのコントラストの中で、
科学をやるとは一体どのような行為なのかと迷うことがあった。
それが、ある時、はっとした。科学のデータや理論は、誰がやっても同じことに
なる「再現性」(reproducibility)がなければならない。
だから、研究者が非凡であるかどうか、個性的であるかということは、科学の
データや理論の価値と関係がない。
むしろ、誰がやっても同じような結果になり、同じ理論的帰結になるからこそ、
科学には価値がある。その点が、アーティストの個性が重視されがちな芸術
とは違う。はっきり言って、個性などどうでもいいのだ。』
ここで、小生が思ったのは、本当にそうかな?という事と我々凡人の場合は?
ということです。
1.本当にそうかな?
確かに芸術関係者は個性が売り物であり、各芸術分野で超有名な人は、
超個性的でほかの人が思いもつかないようなアウトプットがありますよね。
が、超一流というイメージはない場合が多いです。
一方、科学者は物事の真実を追求することで方向性はほとんど一致する。
が、そこまでのアプローチはやはり個人によって異なり、そこに個性が現れると
思います。迅速にスマートに誰もがわかりやすいやり方ができる人は超一流と
言われるのではないしょうか?
ただし、50年100年スパンで結果だけを見られると個性は関係無くなりますね。
2.我々凡人の場合は?
自分の仕事や課題によって大きく異なると思います。
例えば、ものつくり技術ですと、結果は製品で、安全で壊れないで安くて
必要な性能があれば良いになります。最低限誰がやっても同じレベルがあって、
更に他にないような魅力が必要な場合、技術者の個性が必要になります。
そこに技術の面白さがあるのですが、近年時間とコスト競争の激化で厳しい
状況です。
その点、企画などは、やっぱり個性が売りものだと思います。
残念なのは、日本の教育はまだまだ決まった答えを求める非個性的教育だと
いうことです。。
上記は仕事や課題の進め方についてですが、生きる上での
個性はさじ加減、時と場合、使い方次第だと小生は思います。
個性を上手く発揮して、周りの人への良き影響も含めて、
人生を豊かにしていきたいと思います。
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