9月17日、甲府リッチダイアモンド総合市民会館で第64回山梨県老人福祉大会が
行われ、我ら大月小山田信茂公顕彰会は、事務局から要請を受け標記題目の講演を
行いました。

論文作成と講演は、歴史学者のM顧問、小生は論文からパワーポイントの落とし込みと
当日、投影者で参加致しました。

今回の論文は非常によくできていて、結論は小山田信茂公は武田勝頼を裏切ってなく、
武田家滅亡させて人物ではないことを古文書や文献や現地調査などにより綺麗にまとめ
証明したものです。

是非、皆さんにも知っていただきたくて、論文を要約しましたので是非お読みください。

構成は、最初に11日間に何があったかを示し、その後歴史小説風にまとめてみました。

【11日間に何があったか】

三月一日
織田信忠軍が、勝頼の弟・武田盛信が守る高遠城を包囲する 。

三月二日
高遠城が落城し、弟の武田盛信が討死する 。

三月三日
勝頼は新府城で軍議を開き、小山田信茂の岩殿城(大月)へ移動することを決定する 。これは妻である北条夫人を故郷の相模へ帰すための決断だった 。
移動の途中、二歳の幼い息子が病気になり、鎮目村の医師・渡辺氏に預けられる 。
その夜、一行は柏尾の大善寺に到着する 。

三月四日
駒飼(鶴瀬)へ移動し、息子と別れた北条夫人の帰りを待つ 。

三月六日
織田信忠軍が甲府に入る 。
夜、小山田信茂が勝頼のもとを訪れ、岩殿城への移動を促す 。
勝頼は高遠城の落城に衝撃を受け、自害する決意を信茂に伝える 。

三月七日
信茂が母を連れて大月へ帰還する 。
幼い息子と別れた北条夫人が、勝頼のもとへ戻る 。

三月八日
勝頼の指示により、信茂は鶴瀬から郡内へ向かう道に木戸(防御柵)を築く 。これは信茂が裏切って道を封鎖したと織田軍に思わせ、郡内への侵攻を防ぐための策だった 。
小山田八左衛門が大月から武器を持たずに訪れ、殉死を願い出て許される 。勝頼は彼に具足を下賜した 。

三月九日
午前、勝頼の妹・松姫と、土屋惣藏ら腹心の部下たちの妻子たちが、笹子峠を越えて大月へ落ち延びる 。
夜、小山田八左衛門らが木戸の小口から鶴瀬の陣屋に向かって発砲する 。これは、信茂が裏切ったという噂を立て、殉死をためらう家臣たちに逃げる決断をさせるための、勝頼の命令によるものだった 。

三月十日
朝、勝頼一行は最後の地となる田野へ移動する 。
小宮山内膳が田野で勝頼に面会し、共に死ぬ覚悟を伝える 。
夕暮れ時、曽根河内守兄弟が笹子へ去る 。彼らは大月にいた父と合流したと考えられる 。

三月十一日
朝、田野にて勝頼、北条夫嫡男・信勝、そして最後まで従った腹心たちが死亡 。これにより武田家は滅亡した 。
天正十年三月、甲斐の空を凍てつく風が吹き荒れる。 名門・武田家が、その歴史の終焉を迎えようとしていた、最後の十一日間の物語である。

【歴史小説風】

三月三日、燃え落ちる新府城を背に、当主武田勝頼は苦渋の決断を下す。 目指すは重臣・小山田信茂が守る大月岩殿城。 その胸中には、妻である北条夫人を故郷の相模へ無事に帰したいという、夫としての深い愛情があった。

しかし、運命はあまりに過酷だった。道中、二歳になる幼い跡取り息子が病に倒れる。 勝頼一行は、鎮目村の医師であった渡辺源左衛門に我が子を託し、歩みを進めるしかなかった。 後に「芍薬塚」として知られるこの地は、単なる足手まといを捨てた場所ではない。 中国の故事で「芍薬」が「別れ」を意味するように 、それは母と子の断腸の別れの場所だったのである。 この幼子は死んだと伝えられるが、実は生き延び、私の先祖に守られて埼玉の地へ落ち延びたのだ。

一行が駒飼(鶴瀬)に陣を移して間もない六日の夜、織田信忠軍甲府入城の報が届く。 その夜、岩殿城から小山田信茂が駆けつけた。 勝頼は、高遠城ですらわずか二日で落城した現実を前に、もはやこれまでと死を覚悟していた。 信茂に、自らの決意を伝える。 「岩殿城には行かぬ。この地で腹心たちと最期を遂げる」と。 驚き、翻意を促したであろう信茂も、主君の固い決意に触れ、その意を汲む。 そして、主君から最後の密命を受けた。

七日、我が子との別れを済ませた北条夫人が駒飼に戻る。 勝頼は故郷へ逃げるよう強く勧めたが、夫人は夫と共に死ぬことを選んだ。 その覚悟は、誰にも揺るがすことはできなかった。

ここから、勝頼が描いた最後の絵図が動き出す。

八日、信茂は鶴瀬へ至る道に木戸を築く。 これは、信茂が笹子峠を封鎖し、勝頼を裏切ったと織田軍に思わせるための策であった。 これにより、織田軍の郡内領への侵攻を食い止め、領民の命と財産を守ろうとしたのだ。 主君と家臣が共有した、領民への深い慈愛である。

九日の朝、勝頼の妹・松姫、そして土屋惣藏をはじめとする腹心たちの妻子たちが、人質としての役目を終え、笹子峠を越えて大月へと落ち延びていった。 これは、己に殉じようとする忠臣たちへの、勝頼からの最後の恩情であった。

そして、その夜。木戸の方角から乾いた鉄砲の音が響き渡る。 『甲陽軍鑑』は、これを小山田の裏切りと記した。 しかし、これもまた勝頼の命令によるものだった。 「もはや小山田の援軍は来ない。ここにいても死ぬだけだ」。 この発砲は、なおも殉死をためらう家臣たちに、生き延びる決断をさせるための、非情にして愛情深い合図だったのである。

信茂は、主君の命令通り「裏切り者」の十字架を背負った。 汚名を着る覚悟と引き換えに、郡内領民と、主君が逃した人々を守るという使命を胸に。

十日、勝頼一行は最後の地、田野へと向かう。 十一日、勝頼、北条夫人、嫡男信勝、そして最後まで付き従った腹心たちは、壮絶な戦いの果てに自刃。 名門・武田家は、ここに滅びた。

しかし、その滅びの裏には、主君と家臣、夫と妻、そして領民を思う人々の「友愛」の物語が隠されていた。 小山田信茂が裏切り者の汚名を着せられたまま死んだのは、勝頼の死からわずか十三日後のことである。 主君の最後の願いを、彼は命を懸けて果たしたのだ。

以上、我ら大月のお殿様小山田信茂公は、俗に言われる裏切り者の極悪人ではなく、武田家に忠誠をつくし、大月人民に命をささげた、英雄でございます。

   

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