小生は、8月から9月にかけて、大月空襲に関連した30分の映画を、ChatGPT Codexを駆使して制作していく予定です。

現在は構想を練っている段階ですが、AIで史料を整理し、映像や脚本の形にしていくからこそ、現地現物の取材が欠かせないと考えています。

資料を読むだけでは見えてこない距離感、地形、空の広さ、そしてその場所に流れる静けさを、自分の足で確かめなければなりませんもんね。

そこで今回は、大月の街を見下ろす高台、行願寺墓地にある「遺髪塚(いはつづか)」へ、慰霊に行って参りました。

遺髪塚の前に立つと、眼下には、かつて都留高等女学校があった現在の大月短期大学の方向、そして大月の市街地が広がります。穏やかな夏の光の下にある今日の大月の姿からは、80年以上前、この地が戦火に包まれたことを、にわかには想像できません。

しかし、この場所には、とても悲しい事実が刻まれています。

1945年、昭和20年8月13日。終戦まで、わずか二日前の朝でした。大月は米軍の艦載機による空襲を受け、市街地には多くの爆弾が投下されました。大月空襲による犠牲者は、後の調査によって61名とされています。

なかでも最大の被害を受けたのが、当時の都留高等女学校でした。

戦時下、学校は本来の学びの場であるだけでなく、「学校工場」としても使われていました。女学生たちは、物資を空から投下するための小さな落下傘づくりに従事していたといいます。また、警戒警報や空襲警報が出されると、火災から校舎を守るための学校防空要員として登校する生徒もいました。

空襲当日も、始業前の学校には、早くから登校していた生徒や教職員、そして電車で大月駅に着き、学校へ向かう生徒たちがいました。校舎内からは防空壕へ避難しようとする人々が、校門からは学校へ逃げ込もうとする生徒たちが、正面玄関付近に集まっていたといいます。

その場所の近くに、爆弾が落ちました。

校舎は大きく破壊され、倒壊した建物や吹き上げられた土砂の下敷きとなり、女学生20名、女性教師2名、用務員ご夫妻の、合わせて24名が亡くなりました。遺髪塚の傍らには、その24名の名前が刻まれています。

それは単なる数字ではありません。一人ひとりに家族があり、友があり、将来の夢がありました。朝、いつものように家を出て、学校へ向かった少女たちの人生が、わずかな時間のうちに奪われてしまったのです。

同年8月28日、学校葬が営まれ、亡くなった方々の遺髪が行願寺墓地に埋葬されました。最初は木製の墓標でしたが、後に石碑となり、現在の形へ整備されました。遺髪塚は、被災した校舎を見下ろす位置に建てられています。

そこには、「忘れない」という強い意思が感じられます。

さらに調べると、大月空襲には、いっそう胸を締め付けられる背景がありました。米軍側の戦闘報告書を照合すると、艦載機部隊が当初目標としていたのは川崎の工場だったとされています。しかし、目標地が厚い雲に覆われていたため、雲の切れ間から見えた工場やダムを攻撃したと記録されています。

大月は、最初から明確に攻撃目標として記された場所ではなかった可能性があります。それでも、ここに爆弾が落ち、かけがえのない命が奪われました。

戦争とは、なんと理不尽なものでしょうか。

遺髪塚から大月の街を見下ろしていると、資料の上では「空襲」「被害者数」「着弾地点」として整理される出来事が、現実の人々の暮らしの中で起きたことなのだと、あらためて感じます。遠くに見える学校への道、町の家並み、山に囲まれた空。そのすべてが、当時の人々にとっては日常そのものだったはずです。

AIは、膨大な史料を整理し、比較し、映像制作を支えてくれます。しかし、遺髪塚の前に立った時に感じる風の静けさや、眼下の街を見つめる時間までは、AIだけではつかみ取れません。

だからこそ、小生は現地へ足を運び、史実と向き合い、この場所に残された思いを映画に生かしていきたいと思います。

合掌!

 

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