皆さん、武田勝頼は自害をしていなく土佐で生き延びていたという説を
御存じでしょうか?
武田勝頼は定説では1582年に天目山で自害したとされていますが、
高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、
当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、大崎村川井
(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、
この地で25年ほど活躍したというのです。
そして、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去されたことが、
鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)が
あるということです。
この説を歴史的根拠に基づいて、証明しようとしている会があります。
武田勝頼土佐の会は、土佐(高知県)における武田勝頼落人伝説に基づき、
2009年8月に武田勝頼が没後400年を迎えることからこれを記念するとともに、
この地で伝えられてきた「玄蕃踊り」(踊りの象徴である「花台」も復活!)や
「玄蕃太鼓」を通して、さらに周辺地域の民俗芸能団体もご参加いただき、
地域を元気に盛り上げていくイベントを開催するものです。
そして、熱く語っています。
「単なる伝説、作り話としてしまえばそれまででありますが、
私達はこの忘れ去られようとしていた、もう一つの勝頼の物語りに大きなロマンを
感じております。」
今年の4月に、武田勝頼土佐の会の会長を始め数名の方が大月にやってきて
小山田信茂公顕彰会と熱く語り合ったといいます。
大月顕彰会会長は、超熱かった!と言っていました。
何に対しても、熱くなれることは幸せなことですね。
小生も遠く土佐から元気を貰いました。
歴史はロマンだ!
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