大月の山が、まだ青い影をまとっていた。
私はコーヒーを淹れ、窓辺に座った。机には、地域の仲間とやってみたいことを書いたメモが散らばっている。生成AIの勉強会、町の魅力を伝える動画。思いつくことばかり増えて、なかなか片づかない。
開いたパソコンには、書きかけのブログ。
その続きを考えながら湯気を眺めていると、遠くで自転車のベルが鳴った。
顔を上げると、そこは葛飾立石だった。

夕暮れの商店街に、揚げ物の匂いが漂っている。店先の明かりが路地へ細長く延び、その上を、半ズボンの男の子が駆けてきた。
ぶつかりそうになり、少年が立ち止まる。
見覚えがあった。
その顔にも、少しすり減った靴にも。
「おじさん、迷ったの?」
私は返事を忘れて、その顔を見つめた。
「……昔、ここで育ったんだ」
「じゃあ、道、わかるじゃない」
少年は不思議そうに笑った。
幼い頃の私だった。
二人で路地を歩いた。少年は何度も先へ走っては戻り、店先を指さして何か話した。私は相づちを打ちながら、その声を少しでも長く聞いていたかった。
名前を忘れていた店があった。
忘れたつもりで、覚えていた曲がり角があった。
「どうして、そんなにゆっくり歩くの?」
「もったいないんだよ」
「何が?」
私は笑って、答えなかった。
路地の突き当たりで、少年が尋ねた。
「今は、どこに帰るの?」
「山梨大月。山の見える町だよ」
「友達、いる?」
「いるよ。一緒にやってみたいことが、いろいろあるんだ」
少年は安心したようにうなずいた。
どこかで、子供を呼ぶ声がした。
「あ、帰らなきゃ」
少年が駆け出す。私は思わず手を伸ばした。
待ってくれ。
もう少しだけ、この町を一緒に歩いてくれ。
けれど声にはならなかった。
角を曲がる寸前、少年が振り向いた。
「おじさんも、ちゃんと帰りなよ!」
机の上で、スマートフォンが震えた。
『o氏、また面白いことを考えましょう』
仲間からの短い便りだった。
窓の外には、大月の山。
コーヒーはすっかり冷めていた。
私はしばらくカップを両手で包んでいた。さっきまで、あんなに近くにあった夕暮れが、もう遠い。
それでも、少年の最後の声だけは、耳に残っていた。
私は机のメモを一枚引き寄せた。
難しそうに書いていた勉強会の説明を消し、初めての人にも伝わる言葉に直してみる。
立石でもらったものを、今いる町で、こんなふうに少しずつ返していけたらいい。
スマートフォンに返事を打つ。
『ええ、ぜひ。一緒にやりましょう』
窓を開けると、大月の朝の空気が頬に触れた。
あの少年は、夕暮れの立石へ帰っていった。
私はここで、今日を始めよう。
皆さんを育て、今も支えている町はどこですか?

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