1.はじめに

皆さん、こんにちは。

今回は、「世界一過酷なモータースポーツ競技」ダカールラリーの紹介その6です。

本ブログでは、2022年1月のレースが終わるまで、1回/週のペースで
「ダカールラリー」のいろいろを皆さんに紹介しています。

その目的は、以下を紹介しながら、「人間らしく生きる」を考えていきたい
と思っています。
 1.ダカールラリーの素晴らしさ
 2.日野チーム菅原の凄さ
 3.菅原照仁さん、折乃笠が過去何をやってきたか
 4.ダカールラリーの2021年~2022年の最新ニュース
 5.近い将来制作のドキュメント小説『哲人 菅原照仁』のために

 

今回は、上記1~3関連、他では聞けない「丸秘話」をお話しします。

経験者じゃないと味わえない「えっほんと?」「すげえ~!」「大爆笑!」などなどです。

約10年前のお話ですが、まだまだ新鮮ですよ。

2.柏崎オフロードフェスティバル参加

毎年9月、柏崎みなとまち海浜公園の砂浜に特設コースが設定され、
小型4輪車のサンド・ジムカーナ、ダート耐久レースなどが行なわれていました。

その年は特別ゲストとしてチームスガワラ日野レンジャーがデモンストレーションで
参加致しました。

我々の参加の目的は、マスコミを多く呼び、会場のお客さんに大々的に
PRする事と各種の走行試験を実施する事でした。

日野側は土曜日走行試験担当者が参加、日曜日は各部ダカールラリー車担当者がほとんど全員参加し、オフロードフェスティバルの見学とレンジャーの試乗を実施致しました。

小生は車両製作責任者(CE)として土日共参加し、多くの事を経験することができました。

オフロードフェスティバルの全体の雰囲気は、主催者も出場者もそして
観戦者も和気あいあいとオフロードを楽しんでいるという感じです。

が、各マシーンの仕様は相当な知恵と経験が盛り込まれており、”オタク”を
通り越して、”人生そのもの”という感じでした。

ここまで、おとなが熱中できるかとたいへんうらやましくもあり、反面、
普段お仕事どうしてんの?という感じもありました。

さて、日野レンジャーですが、多くの人が走行する姿を初めて見て圧倒されて
いました。PR効果大です。

8月初旬に参戦した前哨戦モンゴルラリーでの改善を実施し、今回計器を
積み込んで試験を実施致しました。結果、良好で一安心です。

小生、第一回目試乗。
ヘルメット着用、4点支持ベルトできつく完全に体を固定し、緊張のスタート。
先ずは加速感にびっくり、その後は縦の振動Gと旋回時の横Gと加速減速のGで
ひっちゃかめっちゃか!
左手はドアビームに右手はシート横のサポートビームに足は突っ張り、体を
固定するのに必死!
3分間の試乗の後は汗びっしょり、半分放心状態でした。

正直、車両の性能がどうだ、装置の仕様はこうしよう、なんて生意気な事を
言っていた自分はこの時はありませんでした。

ダカールラリー本番は、一日中、約二週間この様な過酷な状態で走り続ける。
とても人間業ではないと思いました。

次の日、再び試乗。
今回、二回目という事もあって、すっかり余裕。
性能アップ要求項目も体感できました。

このまま、本番もナビやっちゃおかななんて。
すぐ調子に乗る自分がいました。

 

3.裏話その1

オフロードフェスティバルの夜、宿舎で照仁さん(息子さん、社長)と
ナビのSさんと夜ゆっくり話す機会がありました。

「本番は体力という世界ではなく気力だけ。」
「走行中路面監視で神経を使い過ぎて、夜はほとんど眠れず。」
「レース中は、トイレも時間のロスになるので我慢し続ける。」
「性能アップ要求としては・・・・・」

夜な夜な熱い談義が続きました。

本番のレースでは、約2週間夜も眠れず、1日中過酷な道をトイレを
我慢して走り続ける。
気力 どんだけ~!の世界ですね。

 

4.義正さん(お父様、会長)の雑誌インタビュー紹介

先ず義正さんの紹介です。
『菅原義正。1941年生まれ。二等、四輪のレースを多数経験後、
 83年に二輪でバリダカ初参戦。その後、四輪でのパリタカ完走
 の経験を経て92年より日野自動車のトラックでトラック部門に
 参戦する。
 クラス優勝7回、部門総合準優勝6回など上位入賞を果たし、
 2009年には、前人未到の20回連続完走を成し遂げた
 ギネスの世界記録こ認定されている。』

次が非常に興味深いインタビュー内容です。
「パリダカを始めたときに、これはやばい、絶対(攻略に)10年は
 かかると思った。
 それで、バイクを2年やって4輸を7年やった。10年目にトラック。
 3部門乗って、きれいに終われると思っていた。」

 菅原は知ってしまったのだ。かつて「S600」や「ミニクーパー」、
 「1300クーペ」と出会った時のように、『日野レンジャー』が
 工夫しがいのある相手であることを。

「乗ったら全然世界が違うんですよ。目線が高いし、運転感覚が違う。
 それでね、「よし!」と。
 最初に乗ったのは一般車両に近い状態で、坂を登りやしない。
 これをそれまで乗っていた「パジェロ」みたいに、3速でも4速でも坂を
 上るクルマに仕上げたら面白いだろうと。それが始まり」。

1992年に始まったその取り組みは、まだ終わっていない。

 「時間との勝負だから必死ですよ。
 パリダカがいいのは、年齢によるハンデがないこと。
 顔が悪くても、背が低くてもハンデにならない。
 そこが面白い。
 ハンデもらうんだったらやめるよ。そこまでしたくない。」

最後まで諦めず、知恵を出して手を動かし、困難な状況を打破する。
その真筆な姿を見て、人は菅原義正という人間に信頼を寄せる。

「お金が集まったら出ますと言っても説得力はない。
 「出る」と言えば、その勢いが相手を動かす。
 一所懸命に、まじめにやることです」。』
(出典 月刊誌 ahead 2009-8 )

 

5.裏話その2

小生、アルゼンチンブエノスアイレスでゴール後、義正さんと2人で
飲みに行きました。
その時は、義正さんは、3時間ほとんど下ネタしかしませんでした。

「世界70ヵ国以上廻った、・・・国の女性が良い。」
「昔、プライベートで乗っていたフェアレディは、クーラーが別付きで
 下半身に風が来なくて、イン●ンになった。」
「レース中、トイレを我慢し続けていたら ”me”が出てしまった。」等々

小生にとって菅原義正さんとの出会いは、エンジニアとして、企業人として、
そして人として、大きな転機でありました。

 

6.アルゼンチンブエノスアイレスゴール会場から実況中継

ブエノスアイレスはとても熱い・暑い・厚い所です。

2号車照さんはゴール会場に警笛を鳴らしながら帰ってきました。

最終レース結果はカミオン総合                
7位(完走28台/出場52台)             
エンジン10L以下クラス  
1位(完走6台/出場12台)
市販車クラス
1位(完走19台/出場34台)             

総合7位は相当価値のある事だと思います。

パワーウエイトレシオで1.5倍以上あるモンスターマシンと十分張り合い、
一部には勝っているからです。

もちろん、市販車部門の34台中1位と言うのも凄いと思います。

これはまさしく、ドライバー&ナビの運転テクニック、メカニックの努力、
そしてレンジャーの高性能&高信頼性であると思います。

当然、勝負ごとは結果が大事。
今回の1号車の失格後、義正会長は小生にいろいろな事を教えてくれました。

「人生、何事も、全て、そんなにうまく行かないよ。」
「その後が、大切なんだよ。」
・・・

失格してしまった義正さんのその後の御態度はとても立派で、今後、小生にとって
いろいろな場面で貴重な道しるべになると思いました。 

7.まとめ

以上、ダラールラリーに携わって、多くの貴重な経験をさせていただきました。

菅原義正さん、照仁さんには、本当に感謝しています。
もちろん、これからもお付き合いをよろしくお願いします。

次回は、ダカールラリーのどさくさに紛れて小生が各国をドさ廻りする話です。

 

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