小生は昨日、都留高女空襲体験記が記された『み霊に捧ぐ』を涙ながらに読み終えました。

しかし、「読み終えた」という表現は正しくないのかもしれません。

本を閉じた後も、そこに記された少女たちの声、家族の悲しみ、教師たちの無念が、小生の胸の中から消えなかったからです。

読了したというよりも、八十年以上前の大月から届いた一人ひとりの声を、小生なりに受け取った―そのような気持ちです。

『み霊に捧ぐ』という書籍の位置付け

本書の原型は、遺髪塚整備委員会が編集し、昭和53年(1978年)に刊行した82ページの『み霊に捧ぐ―都留高女空襲体験記―』です。

また、戦後80年に当たる令和7年(2025年)には、「80年目の夏 記憶を未来につなぐ会」が編集し、山梨県立都留高等学校同窓会が発行した新しい版も刊行されています。
山梨県立図書館「山梨と戦争関係資料リスト」/2025年版書誌情報

ここで、本書の位置付けを紹介したいと思います。

本書は、大月空襲の全体像を軍事的、歴史的に解説した「大月空襲の通史」ではありません。

大月空襲の中でも、特に甚大な被害を受けた都留高等女学校を中心として、同級生、教師、学校関係者、遺族などの記憶を集めた「当事者証言集」です。

したがって、空襲の作戦目的、米軍機の行動、大月市全体の被害状況などを把握するためには、行政資料、学校日誌、新聞記事、米軍側の作戦記録など、別の資料と照合する必要があります。

その一方で、公文書には記録されにくい、

少女たちがどのような学校生活を送っていたのか
空襲の瞬間、人々は何を見て、何を感じたのか
家族はどのように娘の死を受け止めたのか
生き残った人々が、どのような苦しみを抱えて戦後を生きたのか

という「人間の記憶」が、本書には残されています。

その意味で『み霊に捧ぐ』は、単なる歴史資料ではありません。

大月空襲を体験した人々の声を残した「地域の証言集」であり、亡くなった人々に祈りを捧げる「鎮魂の書」であり、記憶を次の世代へ手渡すための「継承の書」でもあります。

そして、今後、小生が制作する大月空襲の30分動画にとっては、作品の根幹となる大切な証言資料の一つです。

ただし、本書だけですべての史実を断定するのではなく、他の資料と照らし合わせながら、証言として誠実に扱わなければなりません。

終戦二日前の大月

昭和20年(1945年)8月13日。

終戦まで、あと二日でした。

この日の朝、大月の町を米軍機が襲いました。現在広く用いられている集計では、大月空襲による犠牲者は61人です。そのうち、都留高等女学校では、女子生徒20人を含む24人もの命が奪われました。

当時、都留高女の生徒たちは、空襲から学校を守るため、警報が発令されたときにも学校へ登校し、待機していたとされています。

本来、学校とは、子供たちが学び、友人と語り、将来の夢を育てる場所です。

ところが戦争は、少女たちに学校を守る責任まで負わせました。そして、守ろうとした学校そのものが攻撃され、かけがえのない命が奪われたのです。
都留高校図書館「都留高生に薦めたい一冊」/UTYテレビ山梨「大月空襲から81年」

「終戦のわずか二日前だったのに」と、人は言います。

しかし、その「わずか二日」は、犠牲となった人々にとって、永遠に取り戻すことのできない二日です。

もし、あと二日早く戦争が終わっていたならば、少女たちは家族のもとへ帰り、友人と笑い、恋をし、それぞれの人生を歩んでいたかもしれません。

その未来を、戦争は一瞬で奪ったのです。

父親が拾った娘の遺骨

本書の中でも、小生が特に胸を締め付けられたのは、寄宿舎の舎監であった太田愛子さんが残した、功刀さち子さんと父親の記録です。

さち子さんは、現在の甲州市方面から中央線で通学していました。

空襲後、列車が動かなかったため、父親はすぐに娘のもとへ駆けつけることができませんでした。

娘の亡骸は棺に納められ、破壊された学校の教室に安置されました。

ようやく学校に着いた父親は、火葬場へ行くこともできず、教師たちと一緒に棺を川原まで運びました。そして、空襲で壊された建物の木材を集め、その場で娘を荼毘に付さなければなりませんでした。

川原には、すでに何人もの亡骸を焼いた火の熱が残っていたといいます。

父親と教師たちが遺骨を拾うころ、学校から正午の重大放送を聞くよう知らせが届きました。

それが、昭和天皇による終戦の放送でした。

娘の遺骨を拾いながら知らされた、戦争の終わり――。

この場面で、小生はページを先へ進めることができなくなりました。

戦争が終わったからといって、亡くなった人は帰ってきません。

8月15日を境に爆撃や銃声が止まっても、残された家族の悲しみまで終わったわけではありません。

父親にとっての戦争は、娘の遺骨を胸に抱いたその日から、さらに長く続いていったのではないでしょうか。

大月市郷土資料館「学校日誌と太田愛子さんの証言」

数字の一つ一つに人生があります

「61人」「24人」「女子生徒20人」。

歴史資料には、犠牲者の数が記されています。

正確な数字を確認し、後世に伝えることは大切です。しかし本書を読むと、その数字の一つ一つに名前があり、家族があり、友人があり、失われた未来があったことに気付かされます。

犠牲者は、最初から「空襲犠牲者」だったのではありません。

昨日まで教室で学んでいた少女でした。

家族と食卓を囲み、友人と語り、将来への希望を抱いていた一人の人間でした。

その少女の帰りを待つ母親がいました。

娘の成長を楽しみにしていた父親がいました。

大切な友人を突然失った同級生がいました。

本書の題名が、単なる「空襲記録」ではなく、『み霊に捧ぐ』とされた意味も、そこにあるのではないでしょうか。

亡くなった人々を一つの数字に閉じ込めず、一人ひとりの尊い「み霊」として記憶し、その生きた証しを未来へ伝えていく――。

小生には、この題名そのものが、記録を残した人々の祈りであり、誓いであるように思えます。

遺髪塚の前で

大月市の行願寺には、大月空襲で亡くなった都留高女関係者の遺髪を納めた「遺髪塚」があります。

遺髪塚は昭和30年(1955年)に建立され、現在も毎年8月13日に慰霊祭が行われています。

そこに納められているのは、単なる歴史資料ではありません。

わが子を失った家族が、せめて形見として残した髪です。

行願寺「大月空襲と遺髪塚」

小生も、遺髪塚を訪れました。

その前に立ったときの静けさと、本書を読み終えた後の静けさは、どこか似ています。

石碑は、自ら言葉を発することはありません。

だからこそ、訪れた小生たちが耳を澄まし、その背後にある一人ひとりの人生を想像しなければなりません。

『み霊に捧ぐ』は、遺髪塚の沈黙の奥にある声を、現在の小生たちへ届けてくれる一冊なのです。

平和とは、ただ「戦争がない状態」をいうのではありません。

子供たちが安心して学校へ行き、家族の待つ家へ帰ることができること。

明日の予定を立て、夢を語り、好きな人と笑い合えること。

その当たり前の一日こそが、かけがえのない平和なのだと、『み霊に捧ぐ』は小生に教えてくれました。

「忘れない」とは、心の中で覚えているだけではありません。

現地を訪ね、資料を読み、証言に耳を傾け、確認した事実を記録し、次の人へ手渡すことだと思います。

 

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