間もなく、お盆ですね。

小生、4年前に亡くなった父親と23年前に亡くなった母親が
帰って来るんだなあとお盆になると思います。

そして、父親、母親にはたいへん申し訳ないことをしてしまったことを
思い出してしまいます。

「人間だもの、たまには失敗もするさ」とは言えない
絶対してはいけない失敗(過ち)のお話です。

小生の父親は茨城県の田舎出身で、若い頃東京向島のプレス金型
製作工場で職人をしていて、相当な努力をしてお金を貯めて、
葛飾立石に木造平屋の小さな工場(こうば)を持ちました。
朝から夜まで働いて、手は油まみれで絶えず真っ黒でした。

母親は浅草生まれのチャキチャキの江戸っ子で、向島の親戚の
洋食屋”かもめ”で自称向島小町として働いていました。
どうも職人の父親が”かもめ”に入り浸っていて、母親を口説いたみたいです。
母親は結婚した後、工場で働く職人さんが住み込みだったので3食の用意や
身の回りの世話、給与計算などで目が回るほど忙しかったみたいです。

そんな中で、2歳年上の兄と小生が生まれたのですが、工場の中でついでに
育てられた感があります(笑)。

ただし、父親は貧しいながらも我々子供が欲しいと言ったものはほとんど
買ってくれたし、臨んだことは全て叶えてくれました。
(小生の場合:犬が飼いたい、幼稚園の3年保育に行きたい、プラレールが欲しい等々)

母親は、「勉強しろ」とは一言も言わなかったのですが、とにかく躾が厳しい。
言うことを聞かないと、手で打つのが痛いから竹の布団たたきでお尻を叩くんですよ。
後で自分のお尻を見ると布団たたきの形できれいに赤く腫れあがっているんです(笑)。

というわけで、家の中は、働き者の父と元気の良い母と頭の良い兄と小生、
工場で働く職員さん、愛犬(歴代 幸、りゅう、太郎、ロン)で、たいへん騒がしい、
賑やかな家でした。

今思えば、何不自由なく、生まれ、育ててもらったと思いますね。

そんな小生も21歳になり、新潟長岡の大学で3年生から4年生になりました。

その頃の小生は、国立高専トップクラスの同級生たちの中で劣等感のかたまりで、
超ネガティブになっていたんですね。

家に長期休みで帰ってきて、いつもの如く父親と晩酌をしていた時だと思います。

更にいつもの如き、母親がいろいろとお小言を言っているんですよね。
(遠くに住んでいる小生が心配で心配でしょうがなかったのでしょう。)

最初は、聞き流していた小生も段々癇に障ってきて、本気モードに
なってしまったのです。

「もっと、頭が良く生んでほしかった。」
「こんな家に生まれたくなかった。」

気が付いたら、こんなことを言ってしまった後でした。

しばらく、時が止まった様な沈黙の後、母親が雷の如く怒り狂いました。
父親は、黙って下を向いていました。
今思えば、母親は父親の気持ちをはばかって、代わりに怒ってくれていたのだと
思います。
兄はその場にはいませんでしたが、後で怒り狂って言いました。
「俺がその場にいたら、おまえをぶん殴ってやった。」

小生は、その後、この一言を言ってしまったことをとても悔やみ続けました。
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そして、21年後、母親は病院で心臓不整脈を起こし意識不明の脳死状態になる1日前、
付き添いをしていた小生にこう言ったのです。

「おまえはお父さんと私にとって自慢の息子だ。
 教育のない2人のために、努力に努力を重ねて国立大学、大学院まで出てくれた。
 今は立派な会社に入って、技術者として頑張っている。
 ありがとう。」

小生にとって、今に至るまで、この母親の言葉が大きな救いになりました。

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