10月19日(土)の小山田信茂公顕彰会の講演会
「小山田信茂と岩殿城」がありました。
講演者は上野原郷土研究会の会長さんで元小学校の
校長先生です。
今回のポイントは以下の点でした。
「岩殿山が小山田氏の出城ではなかった」
「郡内領全体を小山田氏が支配したのではなく、旧南都留郡だけが
領地であった」
先生はスパッとはっきり言い切りました。
あまりには言い切ったので、こちらまで完全に信じてしまいました。
ちっちっち!
これは今後小山田信茂公を研究する上で非常に重要事項のため
AIで検証することにしました。
まだまだ、調査研究は必要です。
ここで重要な手掛かりの古文書です。(先生が根拠としたもの)
それではそれを小生の持っている生成AI秘術を駆使して解読していきます。
岩殿城支配
話がたいへん面白いのでAIとの会話をそのまま記載します。
Q1
武田氏の直轄城(ちょっかつじょう)であった可能性を示す重要な文献は
A2
『岩殿城が小山田信茂のものではなく、武田氏の直轄城であった可能性を示す重要な文献としては、以下のものが挙げられます:
『甲陽軍鑑』
この史料には、天正10年(1582年)に武田勝頼が岩殿城への入城を計画した際、小山田信茂に遠慮する必要がなかったという記述があります3。これは岩殿城が武田氏の直轄城であったことを示唆しています。
武田勝頼の在番命令の記録
天正9年(1581年)に武田勝頼が岩殿城の在番と普請を横目衆の荻原豊前守の配下に命じているという記録があります2。これは岩殿城が武田氏の直轄支配下にあったことを示す重要な証拠です。
近年の研究成果
最近の研究では、岩殿城は武田氏の領国経営における重要な直轄の支城として築城され、相模の北条氏に対する備えと同時に郡内を領国とする小山田氏への監視という重要な任務を帯びていたとされています5。
これらの文献や研究成果は、岩殿城が小山田氏の城ではなく、武田氏の直轄城であった可能性が高いことを示しています。』
Q2
以下のような古文書があります。その内容は?
定
落合の 大師の 小笠原の
新左衛門 縫殿右衛門 助右衛門
小笠原の 百々の 今宿の
源次郎 四郎右衛門 新五左衛門
寺邉 徳行 曽根の 黒駒の
孫右衛門 助右衛門新七郎 新左衛門
右拾人岩殿令二在城一、御番御普請等価一疎略‘相勤之由侯条、
郷次之御普請役被’成““御赦免“侯間ヽ自分之用所可被二申付’之由、
所’被仰出‘也、仍如y件、
天正九年辛已 土屋右衛門尉
三月廿日○奉之
(龍朱印)
荻原豊前
A2
『原文:
定 落合の大師の小笠原の新左衛門、縫殿右衛門、助右衛門、小笠原の百々の今宿の源次郎、四郎右衛門、新五左衛門、寺邉、徳行、曽根の黒駒の孫右衛門、助右衛門新七郎、新左衛門。右拾人は岩殿に在城し、御番および御普請等の任務を怠ることなく勤めるよう命じられたが、今後は御普請の役から赦免されることとなり、各自の用事に専念してよいとの指示が出されたものである。
天正九年(1581年)三月二十日。土屋右衛門尉、荻原豊前(龍朱印あり)
現代語訳
落合の大師の小笠原家の新左衛門、縫殿右衛門、助右衛門、小笠原の百々の今宿の源次郎、四郎右衛門、新五左衛門、寺邉、徳行、曽根の黒駒の孫右衛門、助右衛門新七郎、新左衛門。以上10名は岩殿城に在城し、城の警備および普請(建設・修繕)などの任務を怠ることなく勤めるよう命じられていた。しかし、今後は普請の役目から免除され、各自の用事に専念してよいという指示が出された。
天正9年(1581年)3月20日
土屋右衛門尉、荻原豊前(龍の朱印あり)
意味の解説
この文書は、16世紀末の戦国時代に発行された命令書または通達の一種です。以下にその主要な点を説明します:
対象者: 文書の冒頭で10名の武士の名前が列挙されています。これらの人物は小笠原家や曽根家などに属する武士たちであると考えられます。
任務: これらの武士たちは岩殿城(現在の山梨県大月市にあった城)に駐在し、城の警備や普請(城の建設や修繕作業)を担当していました。
変更点: この文書は、これらの武士たちを普請の任務から解放し、各自の用事(おそらく他の軍事的任務や領地管理など)に専念することを許可しています。
日付と発行者: 文書は天正9年(1581年)3月20日に発行され、土屋右衛門尉と荻原豊前によって署名されています。龍の朱印があることから、これは武田氏(おそらく武田勝頼)の公式文書であると推測されます。
この文書は、当時の武士の任務や、領主による命令の伝達方法を示す重要な歴史的資料です。また、城の管理や人員配置の変更など、戦国時代の軍事的・行政的な側面を垣間見ることができます。』
Q3
土屋右衛門尉と荻原豊前とは?
A3
『土屋右衛門尉と荻原豊前は、戦国時代から安土桃山時代にかけて武田氏に仕えた重要な武将でした。以下に両者についての情報をまとめます。
土屋右衛門尉
土屋右衛門尉は、土屋昌恒のことを指していると考えられます1。
生年は1556年(弘治2年)、没年は1582年(天正10年)3月11日です。
「片手千人斬り」の異名を持つ武将として知られています。
武田氏の家臣で、譜代家老衆の一人でした。
武田二十四将の一人である土屋昌続の実弟です。
最後まで武田勝頼に忠誠を尽くし、天目山の戦いで勝頼の自害のための時間稼ぎとして奮戦しました。
その活躍は、織田信長からも賞賛されるほどでした。
荻原豊前
荻原豊前は、荻原昌之のことを指していると考えられます2。
生年は1533年(天文2年)、没年は1588年(天正16年)5月10日です。
武田氏の家臣で、旗本の横目衆に属していました。
甲斐国山梨郡荻原の出身で、国境秩父口の防備を担当していました。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、荻原本領を安堵されました。
甲州九口之道筋奉行に任命され、長久手の戦いにも従軍しています。
両者とも武田氏の重要な家臣であり、戦国時代の甲斐国(現在の山梨県)で活躍した武将でした。土屋昌恒は武田氏最後の戦いで忠義を尽くして討ち死にしましたが、荻原昌之は武田氏滅亡後に徳川家に仕えて生き延びました。このことから、同じ武田家臣でありながら、最後の運命が分かれた二人の武将であったことがわかります。』
Q4
土屋昌恒の具体的な領地?
A4
『土屋昌恒が直接統治していた具体的な領地については、提供された情報からは明確に特定できません。しかし、いくつかの関連する情報が得られます:
土屋昌恒は武田氏の家臣で譜代家老衆の一人でした1。
昌恒の兄である土屋昌続の居館が甲斐国の敷島町島上条大庭(現在の山梨県)にあったとされ、昌恒はこれを相続しています2。
昌恒は長篠の戦いで兄の昌続と養父の貞綱を失った後、甲府に帰還して家禄を相続しました2。
昌恒の生家である金丸家は、現在の南アルプス市徳永を中心とした地域を治めていました2。
これらの情報から、土屋昌恒(つちやまさつね)は主に甲斐国(現在の山梨県)の一部、特に甲府周辺や南アルプス市付近の地域を統治していた可能性が高いと推測されます。ただし、彼が直接支配していた具体的な領地の範囲は明確には示されていません。』
Q5
このことよりやはり岩殿城は小山田信茂の支配下ではなかったか?
A5
この質問に対する直接的な答えは提供された情報からは明確ではありませんが、いくつかの可能性を考えることができます。
土屋昌恒の役割:
土屋昌恒は武田勝頼の側近であり、重要な家臣の一人でした12。彼は武田家の最後まで忠誠を尽くした人物として知られています2。このような立場から、勝頼の命令を代理で伝える役割を担っていた可能性があります。
時系列の問題:
命令書が出された時期と、土屋昌恒が岩殿城にいた時期が異なっている可能性があります。武田家滅亡の過程で、状況は刻々と変化していました5。命令書は岩殿城に向かう前、あるいは岩殿城から離れた後に出された可能性があります。
通信手段としての役割:
戦国時代、重要な命令や情報は信頼できる家臣によって伝えられることがありました。土屋昌恒は、岩殿城と武田勝頼の間の通信役を担っていた可能性があります。
文書の性質:
この命令書が実際に土屋昌恒個人から出されたものではなく、武田勝頼の命令を土屋昌恒の名前を借りて伝えた可能性もあります。
歴史的記録の不完全さ:
戦国時代の出来事に関しては、記録が不完全であったり、後世の解釈が加わっていたりすることがあります。土屋昌恒と岩殿城の関係について、我々が知らない詳細があるかもしれません。
これらの可能性を考慮すると、土屋昌恒がこの命令書を出した理由は、彼の武田家における重要な立場と、当時の複雑な状況に関連している可能性が高いと言えます。しかし、確実な答えを得るためには、さらなる歴史的資料や研究が必要でしょう。
以上は甲陽軍鑑など二次資料からで信憑性に欠ける仮説です。
更に話を進めますが、以下は三次資料からの仮設のため物語的にお読みください。
Q6
ということはここに浅利信種が支配していた可能は?
A6
はい、その可能性は十分に考えられます。提供された情報から、以下のような推論ができます:
浅利信種の役割:
浅利信種は武田氏の重要な家臣であり、赤備えの部隊を率いる侍大将でした4。
岩殿城との関係:
末木健氏の研究によると、浅利集落は岩殿城の根小屋的な集落であった可能性があり、浅利信種が16世紀中頃に岩殿城や根小屋の管理のために詰めていた可能性が示唆されています5。
浅利集落の重要性:
浅利集落が浅利信種の拠点であった可能性が指摘されています5。
歴史的証拠:
『甲斐国志』には、浅利信種の守本尊と伝わる不動堂が無辺寺の裏山にあるとの記載があります5。また、浅利地区には浅利信種の墓も存在しています5。
岩殿城の管理:
岩殿城は小山田氏が支配していたとされますが3、浅利信種が岩殿城の管理に関与していた可能性も否定できません。
これらの情報を総合すると、浅利信種が岩殿城周辺地域、特に浅利集落を中心とした地域を実質的に支配していた可能性は高いと言えます。ただし、小山田氏との関係や具体的な支配の範囲については、さらなる歴史的証拠が必要です。
いやあ~! 歴史を探求するってほんと楽しいですね。
歴史はロマンだ!
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