信玄公祭りに際し、改めて武田信玄を紹介すると共に
関連性の強い大月市民の特性についても紹介する。

1.概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

武田 信玄/ 武田 晴信は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏第16代当主甲斐武田家第19代当主。
諱は晴信、通称は太郎。
正式な姓名は源 晴信。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。
先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、
信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。
その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる
川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃・駿河・西上野
および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。

次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、
西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。

2.武田家について

(1)武田信玄の五つの疑問

武田信玄には大きく5つの疑問があるといわれている。
このことが早期武田家の滅亡に繋がっている。
 ①偉大な父信虎を追放したこと。
 ②騙し討ちにした諏訪頼重の娘御寮人を側室にしたこと。
 ③適子義信を殺害したこと
 ④織田信長と二度も縁組したこと。
 ⑤遺言で病死後三年間は喪を隠し、勝頼を正式の跡目にしなかったこと。

(2)信玄と太郎義信との確執

太郎義信は人並みすぐれて気骨のある逸材に育ち、自他共に認める信玄の
跡継ぎであった。妻は今川義元の娘、今川夫人であった。
武田家には親子が相争う「負の体質」があった。
義信殺害は信玄自らの寿命をも縮め領国を滅亡に導く発端なった大事件である。

(3)信玄と四郎勝頼の関係

①武田家と諏訪家
しばらく上社諏訪氏と下社金刺氏との対立が続いた。
諏訪頼重と武田信虎は同盟軍を結んだ。
諏訪頼重は関東管領上杉憲政と単独講和を結んで領土分割協定を締結した。
その後信玄の怒りをかい、自害。
その子供、寅王丸は信玄を憎み捕らえられて殺害されたという。
諏訪惣領家の処遇について考慮した結果、頼重の子供を側室に迎え
その子に相続させる事にした。
②勝頼と信玄の遺言
信玄は御寮人を側室に迎えたのは絶世の美女だったからではなく、
諏訪郡を統治する手立てとして神長の意見に心を強く動かされた。
信玄はあえて勝頼の子を信玄の養子にした。武田信勝である。
勝頼は甲府ではよそ者であった。
勝頼は強すぎる大将、勝頼の形儀は信玄よりも謙信に似ている。
長篠戦で信玄が大切にしていた武功派の家老衆が消え去った。

3.武田家と大月・小山田家の関係

両氏は数回の婚姻により血脈が相つながっている。
武田十三代信昌夫人が郡内(大月)から嫁いだ直後、骨肉合い喰む争いとなった。
正室と側室の子供同士の争い。
信昌は息子信恵の無事成長を祈って長生寺建立(都留市羽根子)。
その後十八年間武田兄弟が血を流しあう。
その間、北条早雲が吉田まで侵略し、城山と小倉山に城を築く。
北条早雲の重臣葛山氏の口利きで和睦が成立。
ここで小山田氏はこの時点で滅亡する運命にあったが、後継者の小山田信有
二十三才が立派な武人であった。
この頃の小山田氏の勢力は武田氏に匹敵するものであった。
1548年村上義清を田の口城に攻めた時、信玄重傷のため小山田信有を
代将として出陣させた。
これは信玄一生に一回だけのことであり、小山田信有を相当信頼
している証拠である。
その嫡男小山田信茂は14歳時、信玄の長女が小田原の北条氏に
嫁ぐ総指揮をとった。両国を合わせると三万人の総大将となる。
1576年信玄大葬儀のおりには恵林寺には武将五百人が剃髪低頭した。
その中で小山田信茂は葬列第四位、家臣一番の栄誉に輝いた。
小山田三代が武田三代と同じ時期に数々の殊勲に輝く実績を収めたのは
小山田氏の実力を名実共に支える裏付けとなった郡内特有の資本力にある。
その数値は膨大なものであった。
小山田三代とは、越中守信有、出羽守信有、左衛門太夫信茂である。

4.武田家滅亡の背景とその場面

(1)武田家滅亡の主原因

勝頼滅亡の原因は守、成をきらって、みずから新しい創造者を
めざしたことに尽きる。
武田家の跡取りになるか、それとも諏訪家を再興するか、についてはきちんと
した考えを持ち実行していなかった。両方共曖昧。
信玄は、おれの跡は勝頼には継がせない。跡を継ぐのは勝頼の息子信勝だ。
それも十六歳になった時に相続させると勝頼には武田軍旗の使用を禁じた。
武田家の滅亡の原因の一半は信玄そのものが負わねばならないと考えられる。

(2)滅亡の場面

1582年3月3日、新府城に自ら火を放ち、郡内に向った武田勝頼一行は、
はじめ従う者120名という。
2月29日、勝頼と義兄弟の穴山梅雪(信君)はすでに徳川軍に降伏し
敵方についている。
武田軍の暗雲は低くその他の武将も日ごとに脱落し、3月10日駒飼村に
ついて勝頼主従は男女あわせてわずか60名といわれている。
ここに至り武田家の命脈はつき、落命はときの問題であった。
すでに戦闘能力は喪失し、とうてい岩殿城にたてこもり、織田、徳川の
10万余の大軍を迎え討つ力はなかった。
昨日まで生死をともに戦ってきた小山田信茂は、郡内にもどり家臣団と
評議の結果、この大軍を前に祖先伝来の我が領地郡内を戦火から守るには
ともに戦ってきた親族勝頼とたもとをわかつより、方法がないと決断した。
小山田隊からの迎えを待つ、勝頼一行は笹子峠に物見の兵を出した。
しかし城戸の向こうから銃声を聞き、このことを勝頼に報告した。
勝頼はその確証を得ずして信茂の離反と断定し、岩殿城に行くことを断念、
祖先信満のねむる天目山棲雲寺にむかったが敵軍にはばまれ田野の地に引き返し、
3月11日、清和源氏の流れをくむ、新羅三郎義光より21代、500年に及ぶ
名門武田家は敵軍の包囲の中、この田野において一族自刃という悲劇な終りをとげた。
このとき笹子峠頂上より銃撃したのは小山田とも織田の一隊とも定かではない。
混乱の世の一瞬のできごとであった。

5.大月市民の特性について

大月市民は歴史的にエリートでレベルが高いと考える。

桓武天皇を始祖とする相馬将門の血を引く。
また、一時は武田家と同等の実力を持つ小山田家の血も引く。
小山田信茂が自害した後、その直系は稚児落しに残された稚児は浅利の郷で
成人したという。浅利には小山田直系の血が流れているのである。

もし、武田信玄が天下を取っていたならば、小山田氏は第一の重鎮。
大月市民から大久保利通や西郷隆盛級の政治家を輩出していたかもしれない。

また、平安時代には岩殿山末麓に関東一円を勢力化におさめた円通寺が
栄えていた。
大月は関東の名門の円通寺があったことからも仏教伝統の地でもある。

今回、武田家直系信虎、信玄、義信と諏訪の血を引く勝頼は明らかに
人種が異なる。
また、同じ甲斐の国の小山田家系信有、信茂も武田家と大きく性格が異なる。
武田24将が個性的軍団であったことから同じ山梨でもまったく異なる人種と
言えるのではないだろうか。

信茂は最終的には処刑されてしまうが、己の身を差し出して自国領民を
守ったと考えられる。

大月市民は歴史的にエリートでレベルが高い。

  

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