先日、元上司の宮田さんからメールをいただきました。
『哀調を帯びたやるせない歌を紹介します。
作られたのは昭和22年で私が9歳の時でした。』
https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag
小生、歌の一番を聴き始めた時、まあ音声も悪く、随分古い曲だなあ
としか思わなかったんです。
なんか、訳ありソングねって感じ。
まあ、しゃない二番を聴くかと・・・。
だいぶ耳も慣れてきて、女性歌手の高音が感情が入ってきたような
感じがし始めました。
3番に入る前に、画面を観ると「連行されるパンパン」と題字が出て
綺麗なお嬢さんたちが手に縄を掛けれれて連れていかれています。
そして、三番の曲が流れ始めます。
女性歌手の高音はさらに高ぶります。
♪『飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした』
・・・・・・
この歌の背景を宮田さんにお聞きし、小生がアレンジしました。
うら若き直美さんは日本赤十字社の優秀な看護婦(現看護師)でした。
美人で気立てが良くてやさしい娘さんでした。
日本は大戦が続き、誰もかれもが戦いに繰り出されました。
敗戦色が濃くなると、3万を越える看護婦が招集され、戦場に送り込まれました。
戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも
次々と戦地へ狩りだされたのです。
女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、
各地で救護班に組み込まれていったのです。
直美さんもその中の一人でしたが、人と違うのは自身で志願したことです。
派遣先は中国大陸の満州で傷病将兵の救護に当たりました。
しかし、戦況の悪化とともに、直美さんたちは、過酷な勤務を強いられ、
時には戦闘行為に巻き込まれたり、筆舌に尽くしがたい運命を辿りました。
戦争末期になり、連合軍の追撃にさらされた戦場では、直美さんたちに過酷な命令が
下されました。
それは、連れて逃げることのできない重傷の兵士に劇薬を注射することでした。
直美さんは、どうしても重傷の兵士に注射が打てなくて、何度も何度も自分の腕に
はりを指そうとしましたが・・・その度に仲間の看護婦に説得されました。
歯を食いしばって、きつく目をつぶって、注射をしたのです。
目をつぶった暗い闇の向こうには、東京のお母さんと妹がいたのです。
さらに、看護婦自身にも悲劇が訪れました。
連合軍に包囲された戦場で、隣町の看護婦たちが集団自決に追い込まれたのです。
そして敗戦。
直美さんは、しばらく抑留され、自身過度の栄養失調になってしまいました。
与えられる少量の食料を廻りの妊婦や子供達の分け与えていたからです。
そして、その後、命からがらの横浜に帰ってきます。
東京へ、東京へ・・・。
実家のある街は全滅状態、住んでいた実家の辺りは焼け野原になっていました。
身を寄せるところもありません。
声を大にして、お母さんや妹を探し続けました。
・・・・・
そして、「夜の女」として生きるしかないわが身を嘆いた歌が生まれたのでした。
このようなやるせない話は、現在のコロナ禍の世の中にもあるかもしれません。
我々は、「やるせない、かわいそうだ。」と言うことは簡単です。
救いの手を差しのべられれば、それがベストだと思います。
実際は、なかなかできないのが現実です。
よって、我々は、自身に理不尽な事や許せない事が多々あっても、
普通に生活できていることがどんなに素晴らしいことか感謝をしながら、 生きていくしかないのかな・・・
とため息をつきながら、思いました。
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