小生にとってこの3連休(10月12日(土)~14日(月))は、大月岩殿城城主・
小山田信茂公の日です。

以下の準備を進めています。

1.小山田信茂公顕彰会講演会(第十一回)「小山田信茂公と岩殿城」

2.大月市民公開講座で発表『「小山田信茂公」の遺徳を偲ぶ』

3.地元歴史研究会・浅利を知る会の課題報告「小山田信茂と浅利信種」

もう頭が、小山田信茂公でいっぱいです(笑)。

13日(日)、午前中は「小山田信茂と浅利信種の関連性」について
各種AIと会話しながら一緒に楽しく検討を進めました。

午後のほどんどは、ホームグラウンド喫茶マインドルフにて、
小山田信茂公顕彰会の役員会があり、4つの議題について
喧々諤々の議論(大半は会長)で、ヘトヘトとなりました(笑)。

今回のブログは、ヘトヘトの話ではなく、前者の話をさせていただきます。

生成AIによる歴史探求「小山田信茂と浅利信種の関連性」 その2を
次の地元歴史研究会・浅利を知る会で報告するべく検討及びまとめています。

実は10月4日.浅利を知る会では浅利信種が戦死した三増峠(相模原)に
現地調査に行ってきました。

小生は残念ながら.その日の夜中.強度のぎっくり腰になってしまい欠席。

今回、その調査結果やパンフレットをもとに検討を進めています。

以下の年表をご覧ください。

「小山田信茂と浅利信種の関連性」を調査するポイントは黒枠で囲んだ
14年間に限定されます。

その中で三増合戦は大きなキーポイントになります。

ここで解析の一部を紹介しますと

1)三増合戦 パンフレットから解析
(1)浅利信種の記述部分をピックアップ
・浅利信種の戦死
永禄12年(1569年)10月6日に行われた三増合戦では、北条方の綱成の部下が放った鉄砲によって、武田方の侍大将である浅利信種が胸を撃たれて戦死しました。

・浅利信種の墓と浅利明神
金山原の丘には、元禄13年(1700年)3月、曽雌常右衛門知義という人物がこの地を検分した際、自身に縁のある浅利信種がここで戦死したことを知り、「浅利墓所」と刻んだ墓標を建立しました。その後、寛政元年(1789年)、村人が墓のそばから小さな瓶を発見し、それを信種の遺骨とし、丘の下に埋葬。さらに別の碑を建てて覆屋を設けました。この場所は「浅利明神」や「浅利さま」として知られ、戦前までは多くの参拝者が訪れました。

・祈願の木太刀奉納の風習
この地域には、祈願が成就した際に木太刀を浅利明神へ奉納する風習があり、戦前まで多くの人々が訪れたと伝えられています。

この先の内容は10月25日(金)浅利を知る会で報告後、
ブログで紹介させていただきますね。

それでは最後に一言

歴史はロマンだ!

もう一日、信茂公にどっぷりお供します。

 

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