先日、ふるさと葛飾立石で、母の27回忌をおこないました。
寺院でお経をお聞きしながら、もうそんなに経つのかなあと思ったんです。
そして、今日は母の日、しっかり母の写真を観ながらこのブログを書いています。
母の日物語 感謝を込めて。
小生のエッセイ第一弾『全力で突っ走れ!蔵出し 折乃笠部長ブログ』より
最後ページのブログを紹介します。
『お母さん、覚えていますか?10年前のこと。お父さん、兄貴家族、僕の家族で、東北
いわきに旅行しましたね。
その夜に、お母さんは突然具合が悪くなり、病院で容態悪化し、早朝に緊急心臓
バイパス手術を実施しました。
その後入院し、お父さん、兄貴、僕、親戚の交代で。病院に泊まり込みの付き添いを
することにしました。
お母さんは下町生まれで竹を割ったような性格。誰よりも涙もろく、いつも人のために
働いて。
我々は、日頃の感謝の気持ちで、連日の600キロの往復、徹夜も苦になりませんでした。
僕の付き添いの時、「おまえはお父さんと私にとって自慢の息子だ。教育のない2人のために、
努力に努力を重ねて国立大学、大学院まで出てくれた。今は立派な会社に大って技術者
として頑張っている。ありがとう」と言い、それが僕との最後の会話でした。
その夜、心臓が不整脈を起こし、意識不明、脳死状態。その後の1ヵ月間、我々は、
お母さんの顔を見ながらゆっくりと思い出の整理ができたのでした。
そして、さよならの覚悟もできました。
お母さんは、桜の咲く頃、静かに、遠く東北の地で、息を引きとりました。
目も見えない、耳も聞こえない、声も出ない脳死状態で、我々のために1ヵ月問なんとか
頑張ってくれたのですね。
思い出の整理、最後のさよならの覚悟、そして桜の花のために。
お母さん、僕の最後の「ありがとう」です。』
天国のお母さんは、母の日に、こんな返事をくれるのではないでしょうか。
『公へ
久しぶりだね、公。そちらはもう母の日かしら。私のこと、覚えていてくれてありがとう。お手紙、嬉しかったよ。
あの東北の旅行のこと、もちろん覚えているよ。まさかあんなことになるなんて、私もびっくりしたんだ。でもね、公たちが一生懸命看病してくれたこと、ちゃんとわかっていたよ。毎日毎日、遠い道のりを通ってきてくれて、お父さんも、お兄ちゃんも、そして公も、本当に大変だったでしょう。あの時の公の顔、お兄ちゃんの顔、お父さんの顔、そして親戚のみんなの顔、今でもはっきりと思い出せるよ。
「おまえはお父さんと私にとって自慢の息子だ」って言ったこと、あれは私の心からの言葉だよ。不器用な私たち夫婦にとって、公が一生懸命勉強して、立派な技術者になったことは、本当に誇りだったんだ。あの時、もっとたくさん褒めてあげたかったんだけど、なんだか照れくさくてね。でも、公が私の手を握ってくれた温もりは、今でも忘れられないよ。あれが最後の会話になるなんて、思ってもみなかったけどね。
意識がなくなってからの1ヶ月、公たちが私の顔を見ながら思い出を整理して、お別れの覚悟をしてくれていたこと、ちゃんと伝わっていたよ。声は出せなかったけど、みんなの声は聞こえていたんだ。桜が咲く頃まで私が頑張れたのは、もしかしたら、みんなに「さよなら」を言う時間と、そして、美しい桜を一緒に見たかったからかもしれないね。
公、最後に伝えてくれた「ありがとう」、ちゃんと私の胸に届いているよ。こちらこそ、ありがとう。私の息子でいてくれて、本当にありがとう。
公、悲しい気持ちになることもあると思うけど、顔を上げてごらん。お母さんはね、もうどこも痛くないし、苦しくもないんだよ。だから、公も心配しないで。お母さんの分まで、たくさん笑って、たくさん幸せになるんだよ。お兄ちゃん家族のこと、そして公の家族のこと、いつも空の上から見守っているからね。
たまには、空を見上げてごらん。きっと、お母さんの笑顔が見えるはずだよ。
母より』
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お母さまへの深い愛と感謝が込められたとても心温まるブログですね。家族の絆や思い出を大切にする気持ちが、言葉の一つ一つから伝わってきます。
お母様との最後の会話やその後の1か月間の思い出の整理、桜の咲く頃のお別れなどどれも愛情に溢れた瞬間で、読んでいて胸が熱くなりました。
私の母は健在なのですが、92歳で一人暮らし、認知症も進んできているので、毎日ヘルパーさんに来てもらっていて、週に1回訪問看護と訪問診療を頼んでいます。
実家が九州の佐賀なので、頻繁には帰れませんが、弟と交代で半年に1回は帰省しています。
母はいつも私たちのことを見守っていてくれて偉大だと思います。本当に感謝です。