1.はじめに
いよいよNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まりました。
まだ始まって、4話が終わったところですが、ドラマ構成が巧みで、
会話が現代風で、役者さんが個性的で、とても面白いです。
現時点で、小生が一番注目している人は、北条政子。
初代執権北条時政の娘であり源頼朝の妻であります。
その役を小池栄子が演じていますが、これ程ぴったりの女優さんは
いないと感心しています。
実は小生、今から約7年前、北条政子の立場で鎌倉を一日かけて
現地現物調査をしたことがあります。
そして、下記レポートを作成致しました。
「神奈川の歴史を訪ねる徒歩の旅 【5】鎌倉時代 鎌倉
鎌倉幕府の誕生から繁栄、そして終焉を探る』
エッセイ集 「全力で歩き通せ! 折乃笠部長徒歩の旅」にも載せています。
レポートの中の北条政子の挨拶です。
「あたし北条政子が鎌倉時代の最大級の中心人物であると思っています。
だから、自分の足で歩き、自分の頭で考え、自分の声で鎌倉時代を
語りたいのです。
皆さん、よろしくお願い致します。」
北条政子は歴史3代女傑の1人。他は日野富子、春日野局。
その中でも最大の女傑レベルといわれています。
いわずと知れた尼将軍。とにかく個性的だし、気の強さも一流です。
今回は、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていない方にも
たいへん興味深いお話をさせていただきます。
これにより、歴史に少しでも興味を持っていただけるとうれしいです。
2.北条政子ってどんな人 マスコミによる紹介
1)月刊歴史怪童(歴史街道)
政子は伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた。
伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に
流されていた。
源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に
政子は頼朝と恋仲になってしまう。
時政はこの婚姻には大反対であったという。
しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。
政子は、まもなく長女・大姫を出産する。
時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。
2)週刊プレーボーク(プレーボーイ)
頼朝は貴公子であり、都の情報にも長けていた。
家臣を通じて手にいれていたのだ。
そして優れた歌などを詠める高い教養もあった。
無論源氏の嫡子としての恵まれた教育を13歳まで受けていたの
だから当然なことかもしれない。
彼は肖像画や木像からみてもかなり都の公達の雰囲気をかもし出している。
源氏一族は皆、公達顔で、色白、細面、美男の系譜をいたようだ。
それはもう、伊豆の田舎娘達にはたまらない魅力があったろう。
伊豆といえば当時、本当に一番の島流し所だったから、木曽と
田舎ぶりは張るかもしれない。
阪東武者の荒々しさ、無骨さも満ちていた環境で政子は育ったのだ。
彼女のあのものおじしない、キレやすい性格もそんな環境が培ったに違いない。
3)週刊実は(実話)
1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝が鎌倉に入り、
武家の都を創造すると、政子は御台所としてそれを支えた。
源頼朝亡き後、実権を握りたい北条氏は、有力御家人を次々と滅ぼした。
1200年(正治2年):梶原景時が駿河国で討死(梶原景時の変)。
1203年(建仁3年):比企能員が暗殺され、比企一族が滅亡する(比企の乱)。
同年、長男で二代将軍源頼家が追放され、翌年暗殺されている。
1205年(元久2年)、畠山重忠・重保父子が討死(畠山重忠の乱)。
畠山重忠の乱後、政子と弟義時は、父時政を鎌倉から追放し、
1213年(建暦3年)には侍所別当の和田義盛を滅ぼした(和田合戦)。
1219年(建保7年)、次男で三代将軍の源実朝が暗殺された(源実朝の暗殺)。
これらの事件に政子がどのような立場で、どれだけ関わっていたのかは不明だが、
北条氏主導の政権とするために自分の子を犠牲にし、源氏の血を絶ってしまった事は
確かなこと。
3.北条政子ってどんな人 自己紹介
あたしは北条政子。マスコミに何と言われ様が構わない。
強い意志の基、自分の思いで生きてきました。
ここで、強く申し述べたいのは、鎌倉時代は源三代によるものではなく、
その後執権北条氏の時代も言います。
この事は後世にあまり知られていません。
あたしは夫源頼朝に21歳の時に嫁ぎ、4人の子供を授かりましたの。
夫は征夷大将軍となり、あたしは御台所と呼ばれるようになりましたの。
その後、源家と北条家の間に軋轢が発生し、多くの苦悩を味わいました。
あたしは、北条家を守るために自分の子供を暗殺などしていない。
腹を痛めた大事な我が子を殺すなんて、できるはずがないでしょう。
4.夫 源頼朝は政子をどう思っていたか
大倉山の頼朝のお墓を訪ねた時の会話です。(折乃笠創作)
「殿、お久しぶりでございます。政子です・・・」
「政子、よく来てくれた。わしじゃ.頼朝だ。
わしの死後政子は本当によくやってくれた。
わしは天国からずっとそなたを見ていたのだ。
鎌倉幕府を開いて間もない1199年、わしは落馬が元で急死した。
政子はわしの死後、後を追うことも考えたみたいだが
「子供たちを見捨てることはできなかった」
と『承久記』に残されている。
髪を切り尼となった政子は、家督を継いだ、まだ17歳の長男・頼家を支えた
。その後、長男・頼家、次男・実朝は殺されてしまったが、家来たちをまとめて、
わしが作った鎌倉幕府存続の為に尽力してくれた。
1221年には、 後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権を取り戻そうと承久の乱を起こした。
朝廷の敵とされ、戸惑う武将を前に政子は、以下のように演説した。
「皆さん、よく聞いてください。頼朝様が平氏を滅ぼし、この地に幕府を開いてから、
あなた方の役職も収入もずいぶん良くなり、幸せな生活が送れるようになりました。
それもこれも、頼朝様のお蔭です。
その恩は山よりも高く、海よりも深いはずです。
しかし、その恩を忘れ、朝廷側につくのではあれば、まずは私を殺し、
この鎌倉を焼きつくてからにしてください。
それから京都へと行きなさい!」
これを聞いた武将たちは、朝廷軍と戦う決意をした。
幕府軍の結束は固く、最終的には19万騎にもなった。
それ対し、朝廷側の軍勢はおよそ2万数千騎しか集まらず、承久の乱は
幕府側の圧勝で終わり、鎌倉幕府の力は、更に強固なものとなった。
あっぱれであった。政子、本当にありがとう。」
「殿、身に余るお言葉、政子は本当に幸せです。」
5.最後に (折乃笠公徳)
幕府の体制が軌道にのった頃、鎌倉幕府の基礎を築いた政子は病気により
68歳で亡くなります。
鎌倉幕府は、それから100年以上、1333年まで続きます。
幕府などによる武家政権は王政復古の大号令・江戸開城まで足掛け
約680年間に渡り存続することとなります。
北条政子の政治的功績は日本の歴史上非常に大きいことがわかりましたが、
母親として政子は決して幸せではなく、哀れで、可哀想に思えてなりませんでした。
読者の皆様、日本には歴史上このような凄い女性がいたことを覚えておいて下さい。
それでは最後に北条政子より
「皆さま、お幸せに。
これからの日本を頼みますよ。
歴史はロマンですね。」
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