芹沢光治良先生は小生が最も尊敬する小説家です。

10月16日(日) に沼津の芹沢光治良記念館を訪ね、
企画展「光治良の欧州体験『孤絶』『離愁』と『巴里に死す』」
を拝覧する予定です。

それに際し、今、小説『離愁』『離愁』を読んでいます。
(『巴里に死す』は以前に読書済み)

今般、小説『離愁』を読み終わり、大きなショックと大きな疑問点を持ったので
その内容について語りたいと思います。

本ブログをお読みの皆様はあまり芹沢光治良先生を御存じないと思いますが
今回のブログは結論ではなく、思考課程と思ってくださいまし。

今後折乃笠の思考がどのように変化するを知っていただければと思います。

芹沢光治良先生は農商務省の役人を辞して、結婚し、渡仏してソルボンヌ大学に
入学し、シミアン教授に就いて貨幣論を専攻することになるのは1025年
(大正14年)であったが、1927年(昭和2年)卒業論文「貨幣の数量と
価値の変動」を完成直後に、結核に倒れてスイスのレーザンの療養所に入る
ことになる。「孤絶」はそのあたりのことを題材として描かれています。

ここで、小生が大きなショックと大きな疑問点を持った文章を紹介します

『A子と結婚してすぐ欧州に旅立ったが、バリに到着するまでの間に、
 私は大袈裟な言葉を使えぱ、十字架を背負うつもりでなければ、
 この結婚は不幸になることをさとった。
 私の織っていたのはA子の境遇であって、A子自身ではなかったことに気付いた。
 A子にはM子に似たところが尠しもないことを識った。
 M子に似たところは絶無でも、精神的な要素さえあれぱ、私は失望しなかったが、
 高貴な憧憬もなく、あまりにドメスチックな性格が、私を絶望させた。』

この小説は芹沢先生が45歳から49歳までの間に書かれたもので、
この時既に4人の娘さんがおり、戦時中の混乱の中奥様と必死に
生きていた頃です。

作品に描かれている題材からいっても作者の自伝的な内容の小説と
言われています

作品のはじめに、主人公の娘である女性からの手紙があって、この小説は
その女性の父親が遺した手記ということになっています。
「父が中年にして文学者たろうと志して、ついにその希望を果し得ずに
亡くなりました」と記されています。

しかも、「この中に描かれた母は歪められて、娘の私には、真実の母のように
思われませんが、父にはこんな風な母であったのでしょうか。悲しゅうございます」
などと書かれています。

また、「もう一度自己を反省して、懺悔するつもりで自分を筆にのせて、
じっくり検討してみたい」と書いているのは、まさしく芹沢先生自身です。

小生は今まで芹沢先生から教えられたことは以下だと思っています。
・利他の心
・家族を大切にすること
・正しく生きること
・神を敬うこと
・文学は物言わぬ神に言葉を与えるもの
・苦難の乗り越え方
・物事の価値観
・文章で自分の考えを訴えること
・芸術(絵画、音楽等)の素晴らしさ
・故郷の大切

小生の芹沢先生に対するイメージが違い過ぎるのですね。

小説『孤絶』の中の奥様に対する感情が芹沢先生にとってどこまで
本気でどこまでがフィクションなのかまったくわかりません。

小生としては全てがフィクションであってもらいたいです。

今回10月16日(日) に沼津の芹沢光治良記念館を訪ね、是非とも芹沢先生が
この小説『孤絶』書いた真意を自分の目と頭と心で知りたいのと思います。

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