「歴史はロマンだ。今の我々の生き方を教えてくれる。」をモットーに小生、今までにいろいろな歴史シーンについて考察をしてきました。

特に地元山梨の歴史・武田信玄と武田勝頼と小山田信茂(大月岩殿城城士)
については、仮説を立て、自分の脚で現地調査を実施し、事実を確かめてきました。

武田家滅亡に対する小生のコメントです。
武田勝頼は最後多くの家来の裏切りに合い、織田・徳川の大軍に追われ、
天目山(笹子峠の近く)で自害しました。
遠く源氏の血を引く名門武田家はここに途絶えたのです。

実はつい最近の9月18日(土)、機会があって武田勝頼にゆかりのある塩山恵林寺、
勝沼大善寺、そして甲斐大和景徳院を訪れてきました。

塩山恵林寺は、武田信玄の菩提寺であります。
長い生い茂る木々の間の広い道を行くと山門があります。。
さすが信玄の菩提寺であり、威厳とおちつきと美しさを持っています。

勝沼大善寺は、勝頼討ち死に一日前滞在した叔母のいた寺です。
石段は相当古く、上りきると薬師堂があります。
さすが718年からの伝統があり重い雰囲気です。

甲斐大和景徳院は、勝頼自害の地です。
とても静かな雰囲気の寺であり、何故か悲しい雰囲気を持っています。

さて、今、武田勝頼を想うと、「気の毒だ」という気持ちになります。

その理由は、まさしく現代起こっていることによく似ていると思うからです。

現代、S首相は、その前の任期最長の大物A首相の後を継ぎました。
特に新型コロナ禍という最悪の状況の中、突然のA首相の辞任に伴い、
最初は全く継ぐつもりはなく、周りに担ぎ上げられて首相になったと思います。

一方、勝頼は戦国武将一の強者であった父信玄の突然の死により、妾の子であり
四男で諏訪勝頼と名乗っていたにもかかわらず、後を継ぐことになりました。
当時の日本は、日本史上最も混乱している時代であり、勝頼自身も
最初継ぐ意志はまったくなかったと思います。

S首相は、決して器用なタイプではなく、しゃべりもうまくない、外交的でもない。
また、派閥に属さないことからも段々と周りから疎まれるようになったと思われます。
この未曾有のコロナ禍対応は、前例のないことをいろいろやらねばならず、
必ず大きなリスクを伴います。たぶん誰がやっても大きな批判を受けたでしょう。
それを言い訳一つ言わず、最後までやり遂げようとする態度は立派だと思います。

一方、勝頼も全く同じタイプで、ましてや最後までよそ者扱いを家臣から
されていました。戦国の世は増々混乱に向っていました。
特に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の攻防は凄いものがあり、
当時の戦国大名の中で対抗できるものはいませんでした。
武田家のだれもが家督を継いでも同じような結末になっていたでしょう。

最後、S首相は、K環境大臣の涙の説得により、辞意を決断したと言います。
野党やマスコミは、コロナ対策の道半ばで逃げ出したと言っています。

一方、武田勝頼は最後、小山田信茂(大月岩殿城城士)から
逃亡の説得があったのではないかと思います。
が、最後、天目山にて自害に追い込まれて、武田家滅亡させた
張本人と言われています。

以上、身近に起きている現象と歴史の出来事をと照らし合わせながら
考えると、両者に対する理解が深まります。

そして、10月に信玄公生誕500年記念事業の中で勝頼の死の背景が、
今までとは全く異なる事実として明らかにされるはずです。

その時、小生は「武田勝頼は気の毒だ」ではなかったと、言いたいです。

歴史はロマンです。

参考資料です。
http://shokuta.com/yamanasi/yamanasirekisi.html

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