昨日は塩山恵林寺の早朝坐禅会に参禅してきました。

塩山恵林寺は武田信玄公の菩提寺で武田一族や家臣にたいへん縁の深い
禅宗臨済宗の由緒あるお寺です。

御住職の古川周賢老大師様は東京大学で哲学の博士号を取得している
たいへん学識の高い立派なお坊様です。

小生は古川老大師様には5年前から禅講座(3回)や早朝坐禅などで
御指導をいただいており、我が大月の家にもお越しいただいたことがあります。

恵林寺には月1回~2回伺っています。

さて、恵林寺にはお土産コーナーがあり、普通のお土産屋さんにはない
たいへん貴重な品が多くあります。

その中の一つに「武田二十四将図」があります。

小生、恵林寺に行く度にこの絵を穴が開くほど見るのですが、
我が殿大月岩殿城城士の小山田信茂公がいないのです。

一方、高野山で見た「武田二十四将図」には中段の目立つ所にきちっと
小山田信茂公がいらっしゃいます。

話は変わり、今の現代でも、山梨県の甲府を中心とする国中(笹子峠の西側)
では、今だに小山田信茂公が武田信玄公の嫡男勝頼公を裏切った極悪人と
思っている人が多いそうです。

なんと、甲府市の観光情報にも小山田信茂公が載っていません。

よって、そのような理由から小山田信茂公がいない「武田二十四将図」を
掲げているのではないかと、小生は思っています。

それでは、ここで「武田二十四将」について簡単に説明します。

実は先日、大月のビジネスマンとして東京に出張し歴史研究の出版社を
訪問してきました。その時、購入してきた本があります。

小生、むずかしいことやめんどくさいことは、先ずマンガを読んで概略理解します。

それによると
『「武田二十四将」は、実在の人物で構成され、戦国武田三代を支えた人々という
 意味では史実ではあるが、別の面ではまったくのフィクションであるとも言える。

 なぜならば、この二十四将が同時期に実在し、武田軍の陣営においてくつわを
 並べていたという事実はないからだ。

 例えば、板垣信方、甘利虎泰、横田高松らは、信虎から若き信玄の時代に
 武田家を支えた重臣ではあるが、同じ二十四将に数えられる穴山信君、
 真田信綱、真田昌幸らは、彼らが活躍したころは幼児で、行動をともにした
 事実はない。

 つまり「武田二十四将」とは、同時代に活躍した武将ではなく、信虎・信玄・勝頼の
 戦国武田三代の各時代において、それぞれの青年期、壮年期、晩年に仕えた人々
 の総称なのだ。

 そればかりか、「武田二十四将」という呼称が、当時から存在したわけではなく、
 江戸時代に初めて言われたものである。
 
 それでは、なぜ江戸時代に、武田信玄の家臣団が「武田二十四将」として著名に
 なったのか。

 それは、江戸時代初期に刊行され、ベストセラーとなった「甲陽軍鑑」の影響がある。
 同書には、武田家臣団の活躍や言行が数多く記述され、多士済々な彼らは、
 江戸の人々の心を掴んだ。

 さらに武田信玄・勝頼や家臣団は、読本、浮世絵、浄瑠璃、歌舞伎などの題材となり、
 庶民に親しまれる存在となっていった。

 こうした人気を背景に、武田家臣団の中から、二十四人を選抜して武者絵を描くことが
 流行した。』

なるほど!!!

つまり、世の中には「武田二十四将図」は何種類もあり登場人物も色々と言うことです。

よって、これが「武田二十四将図」でござい~と選択するのは現代の我々なんですね。

歴史はロマンです、物語的要素をたくさん持っています。

「武田二十四将図」に小山田信茂公がいないと目くじらを立てるのではなく、
何故、この図を選択したのかを考える方が面白いですね。

それじゃ、恵林寺のおみやげコーナーの小山田信茂公がいない図を誰が選択したのか?

???

別件、現在地元大月歴史研究会・小山田信茂公顕彰会では古川老大師と歴史懇談会を
したいという構想案があります。

キューピット役は小生です(笑)。

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