物事、何でもそうですが、何年も継続してやってきたことが、
改めてそれの本質を考えた時、実は何にもわかって
いなかったということがありませんか?

あります、あります。

小生、その筆頭が坐禅でした。

2016年9月24日(土)早朝、山梨塩山恵林寺(武田信玄の菩提寺)で
始めて坐禅をしました。

悩み事や心配事があり、少しでも解決できないかと軽い気持ちで
先ずは体験ということで始めてみました。

回数を重ねるごとに、坐禅後、何となく心地よい気持ちになり始めました。

合わせて、いろいろなお寺様の老師様の講話を聴きに行ったり、
講演会や講習会に参加したり、関連本を読んだりしてきました。

ならば、坐禅とは?

教えていただいた理屈を復唱するだけで、何か自分のものになって
いない様な感じがする。
やはり、本質がわかっていないのだと思います。

そんな中、今般、目から鱗、いや、目ん玉が飛び出すくらいの
素晴らしい表現に出会ったのです。

ある老師様が幼年期にお父様とした会話を思い出しています。

『「坐禅をするといったい何か分かるのだろうか?」と質問すると
 必ず「坐れば分かる」と言われ続けてきました。
 そして、
 「コップに泥水を入れて、いつまでも引っ掻き回していると泥水のままだ。
 しかし、コップを静かな場所に置くとコップの中で泥と水がわかれる。
 心も同じだ。静かに坐ってみれば見方が変わる。
 見方が変われば人生が変わる。
 苦しい、悲しい、楽しい、嬉しい、忙しいと思っているとかき回されたまま。
 気付きはかき回されたままだと出てこない。
 分かれた時に見方を、自分を変える事が出来る。」
 と父は語ったのでした。』

小生、一瞬にして話の内容を理解することができました。
自分の感性にジャストフィットしたのかもしれません。

何年もわかっていなかったことが、一瞬にして理解できることがあります。

我々は、そのチャンスを得るためにも、常日頃からアンテナを高くし、
五感を磨いておく必要があると強く感じました。

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