「歴史はロマンだ。今の我々の生き方を教えてくれる。」をモットーに
小生、今までにいろいろな歴史シーンについて考察をしてきました。
特に地元山梨の歴史・武田信玄と武田勝頼と小山田信茂(大月岩殿城城士)
については、仮説を立て、自分の脚で現地調査を実施し、事実を確かめてきました。
武田家滅亡の時の小生のコメントです。
武田勝頼は最後多くの家来の裏切りに合い、織田・徳川の大軍に追われ、
天目山(笹子峠の近く)で自害しました。
遠く源氏の血を引く名門武田家はここに途絶えたのです。
最後の最後、勝頼が向かったのは大月の岩殿城でした。
ここは標高674mの岩殿山頂上にあり、不落の城と言われていました。
城士は小山田信茂、文武両道で領民思いの名君と言われていました。
一説によると、勝頼が大月に向って笹子峠を越える時、小山田隊は
鉄砲を撃って拒んだと言われています。
小山田信茂は、最後の最後、織田・徳川軍から大月の街全滅を守った
のだと思います。
今般、実は小山田信茂は武田勝頼を裏切っていないという論文が
地元大月”小山田信茂公顕彰会”より発表されました。
『当時の笹子峠は日影の三寸道、早馬は通れない、ましてや
大勢の軍勢が通れる道ではなかったのです。
また、信茂公が笹子峠を封鎖して勝頼公一行を岩殿山城に
入れなかったのではなく、勝頼公自身が、岩殿城まで落ち延びるのなら、
新府城を出立してから駒飼辺り(笹子峠前)に約七日前後滞留して
おられていたこと自体が不思議であります。
織田・徳川軍に対処することができないと、心変わりをなされて
武田家のご先祖が眠る天目山棲雲寺に至る途中天目山の中腹を東に
向かうと大月の浅利に抜ける道が、現在もあるとのことです。
(※折乃笠のコメント 浅利は小生が住んでいる所です)
勝頼公一行はもしかしたら、ここを目指して上に上がってきたが、
織田・徳川の軍勢が既にその地より下側に迫っていた。
そして、最後もうこれまでと自害したのかもしれません。
決して、笹子峠で小山田信茂公が反旗を翻しただけではないのです。』
山梨全体では、今も尚、大月小山田信茂が武田勝頼を裏切ったとされています。
そんな中、当時の様子を知る(伝承)地元の古老に聞いたり、伝説とされている話を
掘り起こしたりして、地道に事実を検証している人たちがいます。
事実を曲げようとしているのではありません。
真実を追求しているのだと思います。
そうさせるものは何か?
郷土愛と歴史から生き方を学ぼうとする熱意だと思います。
歴史はロマンだ。重要なお話ができました。
P.S. 小生”小山田信茂公顕彰会”への入会を光栄にも誘われています。
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