先回は、建築学の観点から研究した「岩殿山麓の根小屋」説をAIによって探求したが、それが正しいという結果は得られなかった。今回は視点を少し変えて岩殿城は誰が支配していたのかという観点から「岩殿山麓の根小屋」探求をするために、第一ステップとして「一次資料に基づく岩殿城の支配に関する探求」を行った。
1.目的
本報告書は、戦国時代末期における岩殿城の支配系統を、現存する一次資料に基づいて分析し、考察するものである。通説や二次資料(『甲陽軍鑑』など後世の編纂物)を排し、同時代に作成された古文書の記述のみを証左とする。
2.分析対象資料
● 文書名: 土屋右衛門尉・荻原豊前 連署奉書(龍朱印付)
● 作成年月日: 天正九年(辛巳)三月二十日(西暦1581年4月23日)
● 差出人: 土屋右衛門尉、荻原豊前
● 文書形式: 龍の朱印(武田氏の公印)が押された奉書(上位者からの命令伝達文書)
落合の 大師の 小笠原の
新左衛門 縫殿右衛門 助右衛門
小笠原の 百々の 今宿の
源次郎 四郎右衛門 新五左衛門
寺邉 徳行 曽根の 黒駒の
孫右衛門 助右衛門新七郎 新左衛門
右拾人岩殿令二在城一、御番御普請等価一疎略‘相勤之由侯条、
郷次之御普請役被’成““御赦免“侯間ヽ自分之用所可被二申付’之由、
所’被仰出‘也、仍如y件、
天正九年辛已 土屋右衛門尉
三月廿日○奉之
(龍朱印)
荻原豊前
3.資料内容の要点
この古文書には、以下の内容が記されている。
● 宛先: 落合、小笠原、百々、今宿、寺邉、徳行、曽根、黒駒の武士10名。
● 命令内容:
上記10名は、これまで岩殿城に在城し、城の警備(御番)や普請(建設・修繕作業)といった任務を滞りなく務めてきた。
今回、この10名を郷村から動員される普請役(郷役之御普請役)の対象から免除する。
今後は各自の用所(持ち場や本来の務め)に専念するよう、武田家中枢から命令が下された。
4.資料からの考察と結論
この奉書一つから、以下の歴史的事実が客観的に導き出される。
人事権の所在: 天正9年(1581年)の時点で、岩殿城に誰を駐在させ(在城)、どのような任務(御番・御普請)を課すかという人事権は、差出人である土屋右衛門尉や荻原豊前、そして彼らに命令を下す武田氏中枢が掌握していた。
管理系統: 城の普請役を免除するという重要な決定が、武田氏の公印(龍朱印)を伴う奉書で通達されている。これは、岩殿城の管理・運営が、郡内領主とされる小山田氏の裁量ではなく、武田氏本体の直接的な管理系統の下にあったことを示す動かぬ証拠である。
城の性質: もし岩殿城が小山田氏の私的な持ち城(私城)であれば、城内の人事や役務に関する命令は、小山田氏の名で発せられるはずである。しかし、本資料では武田氏の直臣が直接命令を下しており、岩殿城が武田氏の領国経営における直轄の城(直轄城)であったことを明確に物語っている。
5.結論
天正九年三月二十日付の古文書という一次資料に基づけば、岩殿城は小山田氏の支配下にあった城ではなく、武田氏が人事権と管理権を直接行使する直轄城であったと結論付けられる。この一点の資料が、城の支配系統を具体的に示している。
この時点で浅利信種は13年前に亡くなっているが、存命の時、武田信玄の命によって岩殿城を支配していた可能性は十分にある。
ここで、待った!
更に探求を続ける
岩殿城支配をめぐる一次史料整理
目的
戦国期一次史料(書状・古文書・日記等)のみから、小山田信茂と岩殿城の関係を再検討し、「誰が・何を・どの段階で」支配したのかを明確化する。
対象史料(一次史料のみ)
• 天正9年3月20日奉書(龍朱印付)/差出:土屋右衛門尉・荻原豊前/宛:岩殿城在番の武士10名/内容:在番・普請任務者を郷役普請から免除。
• 長生寺文書(元亀4年7月3日)/小山田信茂・信有による寺領寄進目録(花咲・幡倉・藤崎ほか)。
• 永昌院文書「条目」(年代比定:天文〜永禄期頃)/猿橋百姓の年貢未進など、年貢徴収を小山田側に求める内容。
• 理慶尼記(天正10年頃)/信茂が「自らが在所」である岩殿山城への籠城を勝頼に進言した記述。
史料が示す二層の「支配」
A. 領主的支配(知行・年貢・寄進)
長生寺・永昌院関連史料により、信茂(および父信有)が岩殿城周辺(猿橋・花咲ほか)で年貢徴収・寄進を行う実態が確認できる。→ 岩殿一帯は小山田家の在地支配領域だった。
B. 軍事的支配(在番・普請・軍役動員)
1581年奉書は、在番武士の任命・普請免除を武田本家側奉行が直接決裁していたことを示す。→ 非常時(織田・北条圧迫下)において、武田本家が軍事面で岩殿城を直轄運用。
時期変動と「二重管理」モデル
• 永禄〜天正初期:小山田の在所・詰城としての性格が強い(理慶尼記・寺社文書)。
• 天正9年以降:軍事危機下で本家の統制強化。A(領主)=小山田、B(軍事)=武田本家という二重管理が顕在化。
結論(一次史料に限定した暫定的見解)
• 岩殿城は、1) 在地支配(年貢・寺社関与)=小山田信茂側、2) 軍事運用(在番・普請統制)=武田本家側 の二層構造で運用されていた可能性が高い。
• 天正9年奉書は「軍事直轄化」の強力な証拠だが、同時代の寺社文書は「領主的支配」を裏づける。
• 従って、「直轄城 vs 私城」という二分法ではなく、時期と機能により支配主体が異なる“複合的支配”として理解すべきである。
やっぱ、歴史はロマンですね。
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